西村尚也(にしむら・なおや)さんをご存知でしょうか。
まだ知る人ぞ知る存在かもしれません。
私は今回初めてその実演を聴く機会を得ました。
率直に言って、世界を股に活躍する日本人ヴァイオリニストのなかでも、特に傑出したヴァイオリニストのひとりだと感じています。
昨年、青木尚佳(あおき・なおか)さんが、名門ミュンヘン・フィルの初めての女性コンサートマスターに就任して話題となりましたが、同じドイツで、マインツ・フィルのコンサートマスターを務めている西村尚也さんもまた、特筆されるべきヴァイオリニストです。
その西村尚也さんが行った室内楽の公演を私は聴いてきたのですが、ウィーンでもザルツブルクでもなく、日本の代々木上原のホールで、これほど上質の室内楽を体験できるとは夢にも思っていませんでした。
この公演を聴いて感じたことを、徒然につづっていきます。
書きたいことが多くて、ちょっと長めのレビューになっています。
目次(押すとジャンプします)
実はドイツでコンサート・マスター
西村尚也さんのこと
数年前、NHK-BSの番組「クラシック倶楽部」で、見知らぬ日本人の男性ヴァイオリニストを見かけました。
目を見張る演奏の清廉さ、音楽の端正なたたずまい。
それが西村尚也さんでした。
あとで調べてみたら、その当時すでにドイツのマインツ・フィルハーモニーの第1コンサートマスターということで、何だか妙に納得してしまったのを覚えています。
西村尚也さんは、1985年、名古屋生まれ。
ドイツを中心に学ばれたようで、現在マインツ・フィルのコンサートマスターをつとめる傍ら、ゲスト・コンサートマスターとしてはパリ管弦楽団などでも演奏、今月(2023年9月)は日本において、ファビオ・ルイージ指揮するNHK交響楽団のゲスト・コンサートマスターも務められたそうです。
西村尚也さんのリサイタル
当日のプログラム
その西村尚也さんが、室内楽の公演をおこないました。
2023年9月26日(火)18:45@ムジカーザ
J.S.バッハ : 無伴奏チェロ組曲 第6番 BWV1012
(ヴィオラ版=ニムロード・ゲズによる独奏)
ベートーヴェン : 弦楽三重奏曲 第4番 ハ短調Op. 9 No. 3
(休憩)
ヴァインベルグ : 弦楽三重奏曲 Op. 48
ブスタマンテ編曲:3つの古き良きタンゴ
(弦楽三重奏版 el choclo ,Jalousie & la cumparsita※後半2曲は初演)
西村尚也(ヴァイオリン)
ニムロード・ゲズ(ヴィオラ)
佐藤晴真(チェロ)
ヴィオラ奏者ゲズのチェロのような音
コンサート冒頭は、ヴィオラ奏者ニムロード・ゲズによるソロ演奏で始まりました。
曲はバッハの「無伴奏チェロ組曲 第6番」で、これをヴィオラで演奏するというもの。
ニムロード・ゲズは、1977年イスラエル出身。
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団やバイエルン放送交響楽団の首席ヴィオラ奏者を経て、現在はヨーロッパ室内管弦楽団の首席という、凄い経歴のヴィオラ奏者です。
彼が弾きはじめてすぐに驚かされたのが、その「音」。
想像したこともないほど豊かな響きがして、まるでチェロのような音が会場に響きわたりました。
ヴィオラという楽器が、ヴァイオリンとチェロのあいだの存在というのは知識としては知っています。
けれど、それを、実際に「響き」として、まざまざと感じさせられたのはこれが初めてのことでした。
その形状から、むしろヴァイオリン寄りの楽器としてヴィオラを捉えていた私は、ヴィオラがここまでチェロに近い響きを出すなんて、まったくもっての驚きでした。
その演奏は、解釈も非常に練られていて、バッハの組曲を多彩に描きわけ、曲の長さをほとんど感じさせないくらいです。
いっぽうで、あまりにスマート過ぎて、バッハ云々というよりは、彼の優秀さを非常に強く印象づけられる演奏になっていたとも言えるかもしれません。
何よりもニムロード・ゲズの圧倒的なまでのヴィオラの音、ヴィオラという楽器の概念を覆されるような響き、それを聴く醍醐味にひたすら感心する演奏でした。
本当の驚きはここから
2曲目から、いよいよトリオでの演奏に移ります。
ゲズの音を体験してしまうと、今回のトリオの主役はこの圧倒的なヴィオラ奏者になるのだろうかと思いました。
けれども、とんでもない。
西村尚也さんのヴァイオリンこそ、ほんとうの驚きでした。
ベートーヴェンの弦楽三重奏曲第4番ハ短調は、作曲家がまだ20代後半、耳の病いにも侵されていない若き日の作品。
あとの弦楽四重奏曲集への準備として書かれたと言われている作品ですが、西村尚也さんは、この作品の堅牢な構成を、実に音楽的にリードしていきます。
西村尚也さんのリードで聴いていると、それぞれの主題の提示から結尾句、さらに、それぞれの主題の展開に至るまで、ベートーヴェンの筆致、築き上げた音楽の構成が手に取るようにわかります。
音楽の「形」の美しさが伝わってくるということ。
これは、ベートーヴェンのような作曲家では、とりわけ大切な要素のひとつです。
そして、それをできる演奏家というのは、ごくごく一部の音楽家だけです。
大ヴァイオリニストのアイザック・スターン(Isaac Stern、1920-2001)が、あるときのマスタークラスで音楽の「呼吸」の大切さを力説していたことがありました。
音楽がそれに見合った適切な呼吸をしていなければ、音楽は窒息してしまうのだと。
西村尚也さんの生み出す音楽には、まさにその「呼吸」があって、それゆえに、音楽は息づき、生命を宿します。
そして、その音楽の呼吸が適切であるがゆえに、音楽の「形」もくっきりと浮かび上がってきます。
楽章ごとの描き分けも実に見事なもので、ベートーヴェンがどうしてこの曲を4楽章構成で書く必要があったのか、説得力あふれる演奏になっていました。
この三重奏曲のどの楽章をとっても、そのフレージング、アクセントの表情、随所で聴かれた絶妙な間合い、そして、極端に言えばヴィブラートの数に至るまで、実にベートーヴェンの楽曲構造に根ざしたものと感じられて、仮に、客席にベートーヴェン本人が座っていたとしても、きっと非常に満足して聴き入っただろうと想像してしまうほどでした。
西村尚也さんがドイツでコンサートマスターを務められていると知っていたので、技術面での優秀さは当然予想していたのですが、まさか、それを超えて、ここまで「音楽」を形づくることのできるヴァイオリニストだとは予想していませんでした。
ほんとうに、驚きで目を見張りました。
ヴァインベルク
後半は、ヴァインベルク(Mieczysław Wajnberg、1919-1996)の弦楽三重奏曲で始まりました。
ヴァインベルクは、あのショスタコーヴィチの盟友のような作曲家。
日本でも年を追うごとに彼の作品に触れる機会が増えている印象で、その評価はこれからも上がり続けるのではないでしょうか。
ヴァインベルクの作品というのは、悲痛な静けさを持ついっぽうで、切込みの鋭い、刺さるような激しさを持つところもあって、そうした箇所が妙に騒々しくなってしまう演奏にしばしば出会います。
会場となっているムジカーザというホールは、100席ほどの小ホールで、以前、若手の弦楽四重奏団を聴いたときにはフォルテの音があまりにきつく、途中で耳が疲れてしまって辟易したことがありました。
ですが、この西村尚也さんのトリオの演奏は、どんな強い表現の箇所でも、決して騒々しくはなりません。
そうした面でも、とりわけ西村尚也さんの演奏が際だっていて、高音がフォルテで響きつづけるようなところでも、表現としては強烈なのに、うるささは微塵も感じさせない、絶妙な表現が聴かれました。
どんなに強いアクセントであっても、それぞれの作曲家の様式を決して逸脱しない感覚に、豊かな音楽性と高い見識を感じました。
それから、第2楽章アンダンテ。
この楽章で聴かれた、西村尚也さんによる息の長い旋律の扱いも非常に秀逸なものでした。
ひたすらヴァイオリンによって綿々と歌われ続ける楽章で、最初、私には心持ちテンポが速いように感じられたのですが、考えてみれば、この楽章はあくまでandanteであってadagioではありません。
そう考えると、西村尚也さんのテンポは、作曲家の意思に則した、非常に精妙なものが設定されていて、聴いていて目から鱗が落ちる思いがしました。
腕達者な三人が集まってのヴァインベルクは、フィナーレに至るまで、見事なまでの緊張感が保たれて、さきほどのベートーヴェンといい、冒頭のバッハといい、信じ難い水準の室内楽演奏に圧倒されました。
画竜点睛を欠いたのは残念
プログラムの最後に置かれた、ブスタマンテ(西村尚也さんのオーケストラの同僚)編曲による「3つの古き良きタンゴ」は、タンゴの名曲を弦楽三重奏用にアレンジした作品でした。
コンサートのプログラムというのは、料理のコースと同じで、適切な組み合わせや順序が必要です。
意外な組み合わせをするのなら、それなりの説得力と効果がなければ、それまでに積み重ねられたものが台無しになってしまいます。
それでも、タンゴの2曲目「ジェラシー」までは、不思議と違和感も少なく、音楽に身をゆだねることができました。
実際、1曲目と2曲目は素晴らしい編曲作品になっていました。
今後、他の奏者もレパートリーにするだろうと感じましたし、演奏も節度のある、素晴らしいものになっていました。
ただ、3曲目に入る前で演奏が中断されて、ここで西村尚也さんからスピーチがありました。
自分のコンサートでは何があっても必ずアンコール曲を弾くことにしているのだけれども、今回はその準備の時間があまりなく、急遽、モーツァルトのディヴェルティメントをやろうということになったと。
ヴィオラ奏者ゲズの提案で、せっかくならタンゴの3曲目「ラ・クンパルシータ」をアンコールにしたほうがいいだろうということになり、ここで一度モーツァルトを演奏して、それから、最後に「ラ・クンパルシータ」をやるとのことでした。
というわけで、ここで突然モーツァルトが挟まれました。
私の耳では、この変化はとうてい追いつけませんでした。
さらに、「ラ・クンパルシータ」をベースにした第3曲というのが実に奔放な編曲で、私には、編曲者の真意がはかりかねる出来映えでした。
これだったら、せめてタンゴはタンゴでまとめて演奏して、そのあとに、モーツァルトで終わってくれたほうがずっとよかったと、ここまでの演奏がたいへんな出来栄えだっただけに悔やまれました。
この演奏会のおしまいに、バッハの余韻を邪魔せず、ベートーヴェンの余韻に共鳴し、ヴァインベルクの余韻を受け止めるだけの作品が置かれていたら、本当に心満たされ、圧巻の一夜になっていたと思います。
西村尚也さんのヴァイオリンは必聴
西村尚也さんに注目
とは言っても、これほど高水準の室内楽を、日本にいながらにして聴けるというのは本当に稀有なことです。
ウィーンでもザルツブルクでもなく、ベルリンやニューヨークでもなく、日本の代々木上原に、これほどのものが響くということ。
凄いことです。
そして、この室内楽をここまで高水準にまとめあげた西村尚也さんは、やはり、非常に抜きん出たヴァイオリニストです。
無名というわけではありませんが、日本では、まだ、知る人ぞ知るという存在だと思います。
是非、ドイツのオーケストラがコンサートマスターとして招くほどの音楽性を、機会を得て体験してみてください。
それがソロ・リサイタルであれ、室内楽公演であれ、いずれも必聴のコンサートになるはずです。
私のブログでは「コンサートに行こう!お薦め演奏会」のページで、お薦めのコンサートをご紹介しています。
西村尚也さんのコンサートについても、情報を見つけ次第、ご紹介していくつもりです。
西村尚也さんの音源紹介
西村尚也さんのヴァイオリンは、オンライン配信でも聴くことができます。
( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify などで聴けます)
こちらはピアニストのアンドレア・バケッティとのデュオ。
1.コレッリ:ラ・フォリア
2-5.ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番「春」
6-8.ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ
9.サンサーンス:ロンド・カプリチオーソ
10.デ・ファリャ:「7つのスペイン民謡」より 第5曲 「ナナ」
11.バッツィーニ:幻想的スケルツォ《妖精の踊り》
12.パガニーニ:カンタービレ ニ長調
※Amazon Musicでは西村尚也さんの漢字表記が間違っています
( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify などで聴けます)
こちらは、アンサンブル金沢の首席チェリストだったルドヴィート・カンタの名前を冠して「カンタ・トリオ」と名づけられたピアノ三重奏団としてのレコーディング。
1-3.コダーイ:ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲op7
4-6.チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲イ短調「偉大な芸術家の思い出に」
7.ブラームス:「子守歌」
♪このブログではオンライン配信の音源も積極的にご紹介しています。
オンライン配信の聴き方については、「クラシック音楽をオンライン(サブスク定額制)で楽しむ~音楽好きが実際に使ってみました~」のページでご紹介しています。
♪お薦めのクラシックコンサートを「コンサートに行こう!お薦め演奏会」のページでご紹介しています。
判断基準はあくまで主観。これまでに実際に聴いた体験などを参考に選んでいます。
♪実際に聴きに行ったコンサートのなかから、特に印象深かったものについては、「コンサートレビュー♫私の音楽日記」でレビューをつづっています。コンサート選びの参考になればうれしいです。
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