シリーズ「オーケストラ入門」。
今回はだれもが知っているクラシック音楽のひとつ、モーツァルトのセレナード第13番ト長調『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』K.525です。
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実は史料がほとんどない名曲
そのコンパクトで爽やかな音楽から、しばらくのあいだ、私はモーツァルトが若いころの作品だと思い込んでいました。
けれど、実際には1787年、モーツァルト(1756-1791)が31歳のころの、早すぎる晩年期の作品です。
ちょうどオペラでいうと歌劇『ドン・ジョバンニ』を書いていた時期、交響曲でいうと第38番『プラハ』を初演した半年ほど後の作品です。
すでに音楽に透明な、もうこの世の音楽というよりは天上の音楽というべき色彩がはっきりと表れてきていた時期の作品です。
『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』はおそらく、世界でもっとも知られている音楽のひとつです。
けれど、曲にまつわる経緯を伝える史料があまり残っておらず、どういうきっかけで作曲されたのか、誰かからの注文なのか、初演はいつだったのかなど、詳細がわかっていない名曲です。
モーツァルト自身の作品目録の謎
モーツァルトはある時期から自分の作品目録を作成するようになりました。
その目録のなかに、モーツァルト自身が“ Eine Kleine Nacht Musik ”、英語にすれば“ A Little Night Music ”(小さな夜の音楽)と書いているので、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」という題名は、モーツァルトによる正式なものです。
8月10日に書き上げられたことまで、しっかりと記録されています。
それはいいんですが、問題はその目録に、「全5楽章」の音楽として記録されていることです。
現在私たちが聴いているアイネ・クライネ・ナハトムジークは、全4楽章の音楽。
つまり、1つ楽章が足りていなくて、第2楽章にあったはずの「メヌエット」が見つかっていません。
これが何らかの事情で失われてしまったのか、それともモーツァルト自身が削除したのか。
これも、依然、謎のままです。
ただ、結果的に4楽章構成になったことで、作品がすっきりとした姿を獲得しているのも事実です。
全曲聴いて15分ちょっとという短さも、人気の追い風になっているのかもしれません。
モーツァルトとベートーヴェンのエピソード
モーツァルトが『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を書き上げたのが8月。
その数か月前のことですが、同じ年の春のころ、ドイツから当時16歳の少年ベートーヴェンが訪ねてきたという有名なエピソードがあります。
たくさんの弟子入り希望者にうんざりしていて、あまり関心を示さないモーツァルト。
それに対してベートーヴェンが、「何か主題をください、それをもとにすぐにこの場で即興演奏をします」と言い放って、見事な即興演奏を披露。
その才能に驚いたモーツァルトが「この少年から世界は目を離してはいけない」と語ったという、天才2人の出会いのエピソードです。
ところが、よくあることで、現在ではこの有名なエピソードが疑問視されています。
ベートーヴェンがウィーンに来ていたのは間違いがないんだそうですが、モーツァルトに会ったというエピソードを裏づける確実な史料が、実はどこにもないんだそうです。
ベートーヴェン自身がモーツァルトのクラヴィーア演奏について言及した記録は残っているので、モーツァルトの演奏を何かしら、どこかでベートーヴェンが聴いたのは間違いがないようですが。
あの有名なエピソードの信ぴょう性が揺らいでいるというのはちょっとがっかりさせられますが、実際のところ、これもまた謎のままということでしょう。
ただ、ベートーヴェンがモーツァルトの音楽を尊敬していたのはまぎれもない事実。
特に若いころ、モーツァルトに心酔し過ぎて、自身の作品のなかにモーツァルトのパッセージが紛れ込まなないか心配していたほどです。
モーツァルトの旋律を主題とした変奏曲をたくさん書いていることからも、モーツァルトの音楽への尊敬は、終生変わらなかったことがうかがえます。
私のお気に入り
私がこの曲を全楽章、しっかりと聴いたのは中学生の頃、教育テレビでやっていた「N響アワー」という長寿番組ででした。
あの番組が終わってしまう日が来るなんて、想像もしていませんでしたが。
あのときは、名指揮者ウォルフガング・サヴァリッシュの指揮。
第2楽章の途中で入ってくる短調のエピソードが不思議に魅惑的で、それこそ録画したビデオテープを何度も何度も繰り返し観ました。
サヴァリッシュの演奏、またどこかで再会したいなと、たまに思い出します。
意外なことに録音が見当たりませんでした。
さて、この曲は録音も多くて、お気に入りもたくさんありますので、どんどんご紹介していきます。
私がとくに好きな演奏は、シモン・ゴールドベルク指揮オランダ室内管弦楽団のもの。
これは、目の覚めるようなすばらしい演奏です。
シモン・ゴールドベルク(1909-1993)は現在のポーランド出身、世界最高のオーケストラ、ベルリン・フィルがその黄金時代を迎える時にわずか19歳でコンサートマスターに就任したという伝説的な存在。
ユダヤ系のヴァイオリニストであったために、数年後にナチスが政権をとると、ドイツを去ることになります。
第2次大戦中は日本軍の捕虜とされ、ジャワ島で抑留生活を送ることとなってしまいますが、最晩年には、日本人の女性ピアニストと結婚なさったのを機に日本に居住、日本で亡くなっています。
お墓も日本にあるそうです。
奥さんが開設したという、ゴールドベルクの功績を伝える公式の日本語のホームページが存在しています。
人生に対する前向きで甘えのない姿勢、抑留中のゴールドベルクの姿などを読むと、今の自分の生き方を反省させられる凄みがあります。
ニコラウス・アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスは、ここでも全く独自の音楽をやっています。
この演奏を聴いていると、はっきりとモーツァルト晩年期の作品だとわかります。
『ドン・ジョヴァンニ』や交響曲第40番のような、凝縮された、劇的なものが聴こえてきます。
これまでのものに一石を投じる、アーノンクールらしい革新的な演奏。
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カール・ベーム指揮ウィーン・フィルの演奏は、昔から定評のある演奏です。
安心して聴いていられる名演奏。
「音の弁護士」といわれた、いかにもこの指揮者らしい、実直な仕事ぶりが伝わってきます。
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もう少し小さなアンサンブルでは、カメラータ・ベルンの素直な演奏が心地よいです。
スイスの首都ベルンを本拠地としているアンサンブル。
どの楽章もすっきりと爽やかに演奏されていて、肩の力を抜いて聴いていられる録音。
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さらにもっともっと小さな編成でも、この曲は楽しいです。
室内楽編成によるもので、アマデウス弦楽四重奏団とライナー・ツェペリッツ(コントラバス)が共演した弦楽五重奏版。
アマデウス弦楽四重奏団は1948年、イギリスに結成されて大活躍、1987年にヴィオラ奏者のシドロフの死を受けて、潔く解散してしまったカルテット。
私は弦楽四重奏団のなかで、このアマデウス弦楽四重奏団がとくに好きです。
何といってもファースト・ヴァイオリンのノーバート・ブレイニンのテンペラメント溢れる音。
そして、その溢れすぎたものをほかの3名が余裕をもって喜んで支えているのが音で伝わってきて、何を聴いても耳を惹かれるカルテットです。
結成以来、解散するまでの39年間、メンバーの入れ替えが一度もなかったというのも素敵です。
この録音では、そこにベルリン・フィルの伝説的コントラバス奏者ライナー・ツェペリッツが参加していて、私にとって夢のようなアンサンブルです。
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冒頭であげた、19歳のゴールドベルクをでコンサートマスターに迎えたのが、ドイツの巨匠フルトヴェングラーでした。
そのウィルヘルム・フルトヴェングラーが指揮するウィーン・フィルの古い録音も残っています。
フルトヴェングラーは、ゴールドベルクに「モーツァルトでいちばん難しい音楽はアイネクライネナハトムジークだね」と語っていたそうです。
いかにも重々しい音で始まりますが、第2主題への丁寧な移行を聴いていると、この大巨匠がいかに音楽の形式を伝えることに苦心しているのかがわかります。
ここにも、類まれなモーツァルトの世界がはっきりと出現しています。
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そして、モーツァルトといえば、どうしてもブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団。
やっぱり、ここでも傾聴するしかない演奏が記録されています。
ワルターの音楽を聴いていると、音楽にとって“バランス”というものが繊細を極めた重大な問題だというのを教えられます。
強弱のバランス、テンポのバランス、楽器間のバランス、形式上のバランス…。
その何もかもが繊細を極めているところで、ワルターの孤高の世界がはじまります。
随所に、最晩年のモーツァルトの透明度が散りばめられていて、聴いていてため息が出るすごい録音。
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おしまいに、ちょっと変わったところで、ハンス・クナッパーツブッシュ指揮のものを。
リハーサルのことを「クソ練習」と呼んで、ぶっつけ本番で指揮するのを好んだ大指揮者です。
アイネ・クライネ・ナハトムジークでも、特に第4楽章にその遊び心が聴こえてきます。
でも、特に第2楽章では、この指揮者の繊細な音楽性がはっきりと聴こえてきて、素敵な音楽家だとあらためて思います。
第2楽章のおしまいのほうは楽器をしぼって、ほとんど室内楽にして終わらせています。
※検索が難しく、Apple Musicでしか見つかりませんでしたが、ほかの配信サイトでもどこかに埋もれていると思います。
( Apple Music↓などで聴けます)