エッセイ&特集、らじお

独裁者をも魅了したロシアの女性ピアニスト、そのモーツァルトを聴く

 

クラシック音楽がほんとうに人間のこころを清らかなものにする存在だったら、どんなに素晴らしいことかと思います。

でも、残念ながら、必ずしもそうではないということが、歴史のなかでじゅうぶんに証明されています。

 

あのヒトラーもクラシック音楽を好んでいましたし、ナチスの悪名高い医師メンゲレも、人体実験をおこなうかたわらで、ショパンを聴いて涙を流していたという逸話が伝わっています。

 

今回ご紹介するのは、ロシア(旧ソ連)の独裁者スターリン(1878-1953)にまつわる逸話です。

 

ここに書く逸話が歴史的に「事実」なのかどうか、研究者のあいだでは異論もあったりと見解はいろいろあるようですが、ただ、一度聞くと忘れがたい印象を残すエピソードでもありますので、このブログでもご紹介したいと思います。

 

スターリンを感動させたもの

 

独裁者スターリンもまた、音楽を愛し、クラシック音楽を好んで聴いていた人物でした。

 

あるとき、彼はラジオから流れてきたモーツァルトのピアノ協奏曲第23番を聴いていて、ひどく感動してしまいます。

演奏していたのは、ソ連の代表的な女性ピアニストのひとり、マリヤ・ユーディナ(Maria Yudina, 1899-1970)でした。

 

その感動的な演奏をもう一度聴きたい、と彼は思ったのでしょう。

スターリンは、すぐに放送局へ「さきほど流したレコードを自分のところへ届けるよう」に指示を出しました。

 

そして、スターリンのこの何気ない指示が、大騒動をまき起こすことになります。

 

 

というのも、実は、スターリンが耳にした、そのラジオ放送は「生放送」でした。

つまり、レコードを流していたわけではなくて、演奏会場からリアルタイムで演奏を中継していたもので、当然、その演奏が録音されたレコードなど、どこにも存在していないわけです。

 

でも、ないものを「ない」と言って、済む時代ではありません。

相手は「大粛清」を行った、冷酷無比な、絶対的な独裁者スターリンです。

 

不可能な指示を受けてしまった放送局は大騒ぎになります。

そして、どうやら「こうなったら作るしかない」という結論に達したようです。

全速力でレコーディングを行い、一夜にして、スターリンの手元にレコードを届けることになりました。

 

まずは、スターリンを感動させてしまったピアニスト、マリヤ・ユーディナにすぐに事の次第がつたえられます。

彼女は演奏することを引き受け、オーケストラのメンバーも急遽スタジオに召集されます。

 

ただ、伴奏のオーケストラを指揮する指揮者には苦労したようです。

「スターリンに聴かせるためのレコード」というプレッシャーのせいでしょう。

最初の指揮者はダウンし、2人目も同様にダウン、3人目でようやく、順調にレコーディングが進んだそうです。

 

そうして翌日には、夜通しの作業で完成した1枚のレコードが、何事もなかったかのように、スターリンの手元に届けらます。

 

このレコードをスターリンは大変気に入り、ピアノのソロを弾いているマリヤ・ユーディナには、多額の報奨金が贈られることになりました。

 

 

報奨金の行方とスターリンへの手紙

 

そうして、マリヤ・ユーディナはスターリンから多額の報奨金を受けとるわけですが、その返礼として、彼女は1通の手紙をスターリンへ書き送ります。

 

その内容が驚きのもので、「あなたが私にくださった報奨金は、あなたが破壊しつくした教会の修繕にあてるため、すべて寄付をいたしました。そして、あなたがこれまでに成した数々の悪行がゆるされるよう、神に祈っておきました」というような内容だったそうです。

 

スターリン時代のソ連では、特に第二次大戦前まで、教会や宗教が弾圧の対象でした。

このエピソードは1948年のころと思われるので、すでに宗教弾圧は公には行われていない頃のものですが、そうは言っても、この大胆な手紙の内容は、逮捕・極刑を免れないものだったでしょう。

実際、手紙は事前に検閲がおこなわれ、この手紙がスターリン本人に届けられる時点で、スターリンの取り巻きの者たちはユーディナの逮捕状もすでに準備済みだったそうです。

 

ところが、スターリンはこの手紙に目を通すと、驚いたことに、何も言わず、手紙をしまってしまいました

 

ただ、それだけで、おしまい。

お咎めはありませんでした。

 

理由など一切なくても無数の処刑をおこなっていたスターリンが、この件については、どういうわけか目をつむったそうです。

 

一説には、スターリンが子ども時代を「神学校」で過ごしたという事実が関係しているのではないか、という推測がなされています。

ユーディナの「あなたの罪をゆるしてくれるように神に祈った」という、危険なほどに率直な言葉に、スターリンは内心、どこか安堵を得たのではないかという見方があります。

 

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のような救いを感じていたのでしょうか。

いずれにせよ、事情は永遠に謎のままです。

 

マリヤ・ユーディナは、ロシア正教の熱心な信徒でもあり、宗教が弾圧されていた時期にあっても、演奏会場でピアノを前に十字をきっていたほどで、そうした態度は周囲から信じがたい「狂気の沙汰」のようにも見られていたそうです。

こうした強い態度から、演奏活動を禁じられた期間も何度かあったようですが、いっぽうで、独裁者スターリンのお気に入りのピアニストでもあり、不思議な立ち位置の存在であり続けたようです。

 

 

スターリンが聴いたモーツァルト

 

このエピソードを知ると、その「スターリンのためにレコーディングされたモーツァルトの録音」というものを聴いてみたくなります。

驚いたことに、そのときの録音だとされるものが実際に残っていて、わたしたちも聴くことができます

 

モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488

マリヤ・ユーディナ(piano)
USSR全同盟放送交響楽団
アレクサンドル・ガウク(指揮)

 

( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)

※トラック4-6がそうです。

 

マリヤ・ユーディナが49歳になる年のレコーディングです。

モーツァルトらしい表情が聴かれる一方で、そのパーソナリティーの強さを表すかのように、音に骨があるというか、ある種の無骨さが同居している面白さがあります。

そして、わたしがこの録音を聴いて、特に印象的なのが第2楽章です。

誰が弾いても、その痛切な音楽が胸にひびく楽章ですが、ユーディナのそれは、胸にささるような悲しさと美しさがあります。

 

勝手な推測ですが、スターリンは特にこの第2楽章に打たれたのではないでしょうか。

独裁者の心の内など想像してみても、あまり意味のないことですけれど。

 

ただ、紛れもなく、マリヤ・ユーディナの非凡さは第2楽章にはっきりと表れていると思います。

 

モーツァルトをめぐるもうひとつのエピソード

 

マリヤ・ユーディナのモーツァルト。

彼女のモーツァルトの録音には、もうひとつ、ご紹介したい音源があります。

 

1939年、ユーディナの婚約者だったキリル・サルティコフという男性が登山の事故により、25歳の若さで亡くなります。

 

15歳年下のサルティコフは、ユーディナの教え子でもありました。

結婚直前の彼の急死は、ユーディナに深い悲しみを残し、それゆえに彼女は生涯独身をつらぬいたようです。

ユーディナは悲しみにくれるだけでなく、その後、サルティコフのあとに残された彼の母親の面倒もしっかりみ続けたそうで、その姿勢には、彼女の強さと同時に、深い優しさも伺えます。

 

そんなユーディナが残したモーツァルトの録音のなかに、モーツァルト:「レクイエム ニ短調」の“ 涙の日(ラクリモーサ) ”をピアノ・ソロで弾いたものがあります。

 

モーツァルトの最後の作品であり、未完に終わったこの死者のためのミサ曲で、モーツァルトが最後に書きあげたのが、この“ 涙の日(ラクリモーサ) ”の部分です。

もともとはオーケストラと声楽のための音楽なので、これをピアノ独奏で弾くというのは、かなり珍しいことです。

 

( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)

 

そして、この珍しいピアノ・ソロの編曲版をつくった人こそ、他ならぬ、婚約者サルティコフなんだそうです。

彼女は、この編曲版を大切なレパートリーとして、演奏し続けたそうです。

 

あのスターリンのための「ピアノ協奏曲第23番」の第2楽章に通じる、痛切で、こころに強く刺さる音楽がここにも聴かれます。

こういう演奏には、ただただ、耳を澄ますしかありません。

言葉を失う音楽です。

 

婚約者の死という、きわめて個人的なものが背景にあるにせよ、このラクリモーサを聴いていると、彼女が生きた時代の暗さ、悲しみまでも強く感じてしまうのは、どうしてなのでしょうか。

 

過酷な時代のなかにも美しく響くもの

 

マリヤ・ユーディナ。

この2つのモーツァルトを耳にするだけでも、そのピアニスト、音楽家としての非凡さをはっきりと感じとることができます。

紛れもなく、芸術大国ロシアが生んだ、偉大な音楽家のひとりです。

 

スターリンの時代は、当時の大作曲家ショスタコーヴィチ(1906-1975)の生涯を考えればわかる通り、芸術が政治におおきく干渉され、抑圧された時代でした。

そんななかでも、これほど美しい音楽が響いていたという事実をおもうとき、当時の芸術家たちの生き様には圧倒される何かがあります

 

2023年5月現在、ロシアによるウクライナ侵攻の混乱と悲劇は、以前、出口の見えないものになっています。

ここにご紹介したような時代の影に、ふたたび、ロシア自身もおおわれているのかもしれません。

 

今のロシアには、いったい何が響いているのでしょう。

 

 

あとがき

 

ブログをはじめて、この2023年の5月でちょうど丸2年。

この記事から3年目に突入します。

 

なんと、先月のpvを確認してみたところ、86,000pvを超えるアクセス(!)をいただいていました。

2022年10月、開始1年半で、なんとか指標にしていた30,000pvに到達して喜んでいたのですが、いつのまにか、その倍を超えるというか、3倍近いアクセスをいただいていたようで、とてもうれしいです。

読んでいただいて、ほんとうにありがとうございます!

 

このブログでは、現在、以下のようなシリーズを展開中です。

♪ おすすめのクラシックコンサートをご紹介する「コンサートに行こう!お薦め演奏会

♪ 自分がじっさいに聴きに行って印象に残った公演をレビューしている「コンサートレビュー♫私の音楽日記

♪ クラシック音楽にまつわるTシャツやバッグをデザイン・リリースする「クラシックのTシャツ&バッグ制作

♪ 名曲の解説やお薦めのアルバムをご紹介する「小さな視聴室~名曲は名演奏で聴こう

♪ 今回のような特集記事、そのほかのエッセイ、NHKのラジオで耳にしたクラシック音楽の話をつづる「エッセイ・特集・AM&FMらじお

 

これからも、少しずつですが、自分の体験、知ったこと、感じたことなどを素直につづっていきたいと思います。

3年目もどうぞよろしくお願いいたします。

 

♫このブログでは、音源をご紹介するときに、オンライン配信されているものを中心にご紹介しています。オンライン配信でのクラシック音楽の聴き方については、「クラシック音楽をオンライン(サブスク定額制)で楽しむ~音楽好きが実際に使ってみました~」という記事にまとめています。

 

わたしのラジオ日記【2023年4月号】~NHK「らじるらじる」で出会ったクラシック音楽前のページ

クラシック音楽愛好家、立川志の輔を聞きに行く~落語とハイドン・モーツァルトの精神次のページ

ピックアップ記事

  1. クラシック音楽をサブスク(月額定額)で楽しむ方法~音楽好きが実際に使ってみました…

関連記事

  1. エッセイ&特集、らじお

    【エッセイ】クラシック音楽評論家 諸石幸生さんの訃報に接して~コンサートの聴き方

    つまらないコンサートもう何年前のことになるか、年が明けて間もない時…

PR

当サイトはアフィリエイト広告を利用しています

おすすめnote

カテゴリー&検索

月別アーカイブ

最近の記事

  1. コンサートレビュー♫私の音楽日記

    ジョナサン・ノット&東京交響楽団の“第九”公演2022を聴いて~その「挑戦」と「…
  2. コンサートレビュー♫私の音楽日記

    チェコ・フィルの底力、ドヴォルザーク「新世界から」をビシュコフの指揮で聴く
  3. シリーズ〈交響曲100の物語〉

    【初心者向け:交響曲100の物語】ハイドン:交響曲第87番/第85番『王妃』/第…
  4. お薦めの音楽家たち

    読売日本交響楽団の公演から~わたしのおすすめクラシック・コンサート
  5. エッセイ&特集、らじお

    わたしのラジオ日記【2023年2月号】~NHK「らじるらじる」で出会ったクラシッ…
PAGE TOP