エッセイ&特集、らじお

師匠と弟子が同じピアノ曲を弾いたら~モーツァルトの短調が描くもの

 

スペクトラム・サウンドというレーベルが出している、フランス国立視聴覚研究所(INA)の貴重音源を使ったBelle Ame(ベルアーム)というシリーズ。

このシリーズから、今回はラザール・レヴィとモニク・アースによる師弟の競演を取り上げます。

こちら、CDとしては2021年9月発売ということですが、ベルアームさんのYouTubeチャンネルですでに公開されていてまるまる試聴ができます。各演奏のところでYouTubeのリンクを貼ってあります。

 

2人が演奏しているのは、どちらも同じモーツァルトのピアノソナタイ短調K310。

「モーツァルトの短調」という言葉があるくらい、モーツァルトは短調の曲を書きませんでした。基本的には長調で書くのが、この天才作曲家の特徴のひとつです。

ただ、それだけに彼が短調を使うというのは特別なときであって、まずもって傑作ぞろいになっています。

交響曲第25番、交響曲第40番、ヴァイオリン・ソナタホ短調など。交響曲第25番(AppleMusicAmazonMusicLine Music)はむかし『アマデウス』という映画で大きく使われて、一般にも広く知れ渡りました。

 

このベルアーム・シリーズのものでは、モーツァルトのイ短調のソナタを師匠のラザール・レヴィが1956年に演奏したものと、弟子であったモニク・アースが1973年に演奏したものとを聴き比べられる趣向になっています。

師弟関係といっても色々あるはずで、この二人がどれくらいの師弟関係だったのか、つまり、短期間なのか、長期にわたってのものなのか、一時的な影響なのか、強い影響だったのか、私は知りません。

 

ただ、企画自体がとっても面白いですし、YouTubeで聴いてみた結果、両者の違いというところ以上に、そこから見えてきたモーツァルトの美の多彩さ、多様さが心に残る素晴らしい聴き比べだったので、こうして記事にしようと思いました。

これもYouTubeでたまたま視聴しなければまったく聴かずにいたと思います。
ベルアームさんの音源公開、本当にありがたいです。

モーツァルト:ピアノ・ソナタ イ短調 K310とは

1778年、モーツァルトがお母さんの死を受けて(もしくはその死の予感から)、その影響が色濃く出ているとされる作品です。実際、曲の冒頭から悲しみに満ちた楽想が際立っていて、緊張感に満ちた音楽になっています。

当時モーツァルト、21歳。母と二人でパリに仕事を求めて旅に出ていた途中でした。同時期にはこちらも傑作として名高いヴァイオリン・ソナタホ短調K304が生まれています。

この悲しみの時はモーツァルトが室内楽で短調の傑作を生んだ特別な時期になりました。

全3楽章で、第1楽章がAllegro maestoso(荘重なアレグロ)、第2楽章がAndante cantabile con espressione(表情豊かに、歌うようなアンダンテ)、第3楽章がPresto(プレスト、急速に)。全曲でも13分ほどのピアノ・ソナタです。

モーツァルト:ピアノ・ソナタ イ短調 K310
ラザール・レヴィ(piano)

まずはお師匠さんにあたるラザール・レヴィの演奏から。YouTubeのリンクはこちらから。

ラザール・レヴィ(1882-1964)はフランスのピアニストにして、パリ音楽院の教師。門下生の名前を見てみると、この人がどれくらいすごい教師だったかがわかります。

門下生のリストにあるのは、あの喜劇王チャップリンがイギリス首相のチャーチルと並べて「人生で出会った二人の天才」と呼んだ女流ピアニストのクララ・ハスキル、さらに、歌曲の名伴奏者ジェラルド・ムーアが崇拝していたソロモン、大作曲家メシアンの奥さんとしても有名なイヴォンヌ・ロリオ、それから指揮者として活躍するミシェル・プラッソン、などなど。

そうそうたる顔ぶれで驚きます。紛れもない名教師だったんでしょう。

レヴィによるモーツァルトを聴いてみる

第1楽章の冒頭からとってもストレートな、駆り立てるようなピアニズムに引き込まれます。

特に、左手の強いバスが特徴的で、ベートーヴェンの初期のピアノ・ソナタのように聴こえるくらい。疾走し、畳みかけるような勢い。それなのに、バスによってしっかりと主題提示部などの形式の句読点が示されるので、音楽がしっかりとした足取りを瞬時も失わないのが、この演奏のすごいところ。

凄みすら感じさせる焦燥感と勢いのなかで、モーツァルトの短調が駆け抜けていきます。強く、深く印象を残す圧巻の第1楽章。

第2楽章は慰めに満ちているけれど、それはあくまで第1楽章の反動のよう。

演奏時間がいちばん長いはずのこの第2楽章ですら束の間の慰めとして、淡く響きます。

後半に少し響く短調の不穏な響きは第1楽章のエコーとしてむしろ強く印象的で、この第2楽章が悲劇的な両端楽章に挟まれたささやかなエピソードのように聴こえてきます。

第3楽章はモーツァルトの指示通りのプレスト。

早く、早く書き終わりたいとモーツァルトが焦燥感に駆られているかのようで、まるで第1楽章の影を振り払いたいかのようにあっという間に駆け抜けていく演奏。

何かこう、モーツアルトの苛立ちがたたきつけられているようにすら感じられます。

今回聴いた演奏は1956年2月の演奏ということなので、レヴィがなんとすでに74歳のころの演奏。年齢をまったく感じさせないとはこのこと。驚きます。

テクニックもさることながら、これだけ攻めた解釈で、情熱的で、果敢なピアニズムをこの年齢で持っていたという事実。

以前、名ピアニストのクラウディオ・アラウのインタビューを読んだときに、まだ少年だったころに大作曲家リストのお弟子さんだったという女性ピアニストを紹介されたときのエピソードが載っていました。女性ピアニストとは言っても、アラウが出会ったときにはすでに本当に高齢のおばあちゃんだったそうで、ところが、その人がピアノの前に座った途端、火の玉のような勢いでピアノを弾いたそうです。

高齢になったら演奏が枯れていくというのは、単に世の中の思い込みであって、どんなに高齢であろうと、炎のような演奏を実現することは可能なのだと、子ども時代に思い知らされたとアラウは述懐していたはずです。

レヴィの演奏時の年齢をみて、その話を思い出しました。

モーツァルト:ピアノ・ソナタ イ短調 K310
モニク・アース(piano)

次にお弟子さんの女流ピアニスト、モニク・アースによる同じ曲の演奏。YouTubeのリンクはこちらから。

モニク・アース(1909-1987)はフランスの女流ピアニスト。よくCDなどで見かけるのはドビュッシーやラヴェルのフランス音楽のもの。

今回聴くのは、1973年2月の演奏ということなので、アースが64歳のころの演奏。

アースによるモーツァルトを聴いてみる

第1楽章、レヴィの演奏から続けて聴いてみると、「あれ?」っていうくらいきっと拍子抜けするはずです。

レヴィがあれほど畳みかけるように疾走していたこの第1楽章が、まったく節度をもったテンポで弾かれていきます。

悲劇的な風情はもちろん多少はあるけれど、それは古典の形式の枠組みのなかで均整のとれた彩りとして響いていて、全面に押し出されることはありません。もう、先ほどのレヴィの音楽とはまったく違う音楽が鳴っています。

レヴィがいかに、第1楽章を雄弁に、全面に押し出して演奏していたのかがはっきりとわかります。アースのものは、いかにもモーツァルトらしいモーツァルト。

そして第2楽章

第1楽章でやや拍子抜けし、物足りなさを感じたまま、この第2楽章を聴きはじめて、やがて、その美しさにハッとさせられ、驚かされます。ほんとうにカンタービレな、歌うような演奏。

あの、モーツァルト特有の、涙の後の笑顔、悲しみの果てにある小さな微笑みが響いています。しなやかで、深い慰めに満ちた音楽。ここぞというときに、豊かに、ささやくように響く弱音の優しさ。

レヴィの演奏では不穏な響きに聴こえた後半の短調のバスが、アースの演奏ではモーツァルトが深い悲しみをぐっと抱きかかえているかのよう。随所にひびく不協和音ですら、悲劇というより、モーツァルトは本当に悲しかったんだと胸に染みわたってくるような音。

人間がもっとも優しくなれるような美しさで満ちあふれた演奏。

ここには、はっきりとモーツァルトという一人の人間の個人的な感情の発露が聴きとれます。低音、中音域、高音、そのすべての音がかなしくて、やさしい。

出色の第2楽章。

つまりは、アースはこの曲のクライマックスを第2楽章としているということです。だから、第1楽章をレヴィのようには弾けないということです。第1楽章をレヴィのように弾いてしまったら、どんなに第2楽章を優しく弾いても、どうしたって第1楽章の影が反映してしまう。

だから、第1楽章を最大限抑えて演奏していたのでしょう。

つづく第3楽章、アースの弾くプレストは、プレストといっても抑制のきいたプレスト。

アースがゆっくり目のテンポで紡ぐこの楽章は、すこし雨上がりのような爽やかさすらあって、晴れ渡りはしないけれど、悲しみのさなかにいるというよりは、少し悲しみをふり返っているかのような、何かが思い出に変わっていく、そのはかなくて、悲しいけれど美しい瞬間がきざまれたような音楽。

このプレストは第2楽章のエコーであって、あの慰めに満ちた音楽から生まれてきた、淡いエピローグとして第3楽章を捉えているのでしょう。

師弟の描くモーツァルトの短調

こうして2人を聴きくらべてみると、その違いによって、モーツァルトの短調が実にいろいろなことを描いていることを教えられます。

レヴィの演奏では、何といっても第1楽章がクライマックスなわけです。モーツァルトの短調、ほとんど短調の曲を書かなかったモーツァルトの異様な緊張感に満ちた音楽を前面に押し出すことで、この曲の悲劇性をストレートに響かせています。

まさに、全3楽章が悲しみの疾走であって、それは後のベートーヴェンを予感させるほどの力感もあわせ持っています。もちろん、レヴィはそこまで意識してやっているはずです。圧倒的な造形を誇る名演奏で、聴いていてすっかり魅了されました。

一方で、アースの演奏は何よりも第2楽章をクライマックスとして捉えていて、いわば第1楽章はそのプロローグであり、第3楽章はエピローグです。

いちばんテンポの遅いカンタービレのアンダンテ楽章を頂点としていて、それゆえに全3楽章を聴いたあとにも、第2楽章で響いていた淡い悲しみの響きがいつまでも胸に余韻として残る感動的な演奏になっています。

レヴィのあとに聴いて、最初ちょっと物足りない気分になってしまったのもあって、第2楽章でその演奏の意図が伝わってきたときには、心がふるえました。

同じモーツァルトの楽譜から、まったくちがう音楽が引き出されてくる。そして、そのどちらもが構成から何から説得力を持っているというところに、二人の演奏者のすばらしさだけでなく、モーツァルトの音楽の懐の深さ、実に多彩な音楽を書いた天才を思い知らされます。

そのこのふたつの演奏を聴いて、どちらが正しいかなんていうことは全く意味のない問いかけです。どちらも紛れもないモーツァルトの音楽。モーツァルトがもしこのふたつの演奏を聴いたら、どちらも自分の音楽そのものだと太鼓判を押してくれるでしょう。

まったく違う世界がひとつの楽譜から出現するのはどうしてなのか。

それはクラシック音楽の傑作によくある謎であり、楽しみでもあり、神秘性でもありますが。きっとモーツァルトの耳にはそのどちらもが含まれた、余人には想像もできないような音楽が鳴り響いていたんでしょう。

この曲の忘れられない名演奏

さて、本題から離れちゃいますが、この曲の演奏でおそらくもっとも有名なのは、ルーマニアの伝説的なピアニスト、ディヌ・リパッティの演奏です。これをご紹介しないのは嘘になりますので、末筆ながらご紹介します。

悪性リンパ腫の病に倒れた彼が1950年9月16日、フランスのブザンソンで行った人生最後のリサイタル。このリサイタルの数か月後に亡くなったリパッティ、当時まだ33歳でした。

不滅の名演奏として、世界中の多くのクラシック・ファンがとりわけ大切にしている貴重な録音。ショパンのワルツ14曲が予定のプログラムでしたが、予定していたうちの1曲、第2番は体力の限界で弾くことができませんでした。

このことについて、「きっとショパンですらそれを許してくれたことでしょう」とリパッティの奥さんが語ったそうです。忘れられない言葉です。

この演奏については、たくさんのところでたくさんの方が語ってらっしゃるので、このブログではこれ以上触れません。というより、私にはこの演奏を語るだけの自信がまだありません。

まだお聴きになっていない方は、何よりまず聴いてみてください。

『ブザンソン告別リサイタル』として名高い録音です。(AppleMusicは↑、SpotifyAmazonMusicLine Music)。CDも数種類出ています。

今回は、モーツァルトの短調が描くものというテーマで、師弟による競演を特集しました。

聴き比べというのは、たいていどっちが素晴らしいとか、どっちの方が自分の好みにあっているかというのが基準になります。けれど、こうして本当に優れた演奏というのは、その違いを楽しむことを教えてくれます。

そして、その違いを通して、作曲家ののこしてくれた作品が汲めども尽きない創造性の泉であることを教えてくれます。

もし何か好きな音楽が見つかったら、それを他の名演奏家・名指揮者はどう演奏しているのかを聴いてみてください。それこそ、世界を広めることであり、深めることになります。そういう楽しみ方は、クラシックならではの醍醐味です。

多様性にあふれたクラシック音楽の入り口として、今日ご紹介した2つのモーツァルト演奏をどうぞ楽しんでみてください。

モーツァルトの短調ということでは、有名な交響曲第25番と第40番やピアノ協奏曲第20番はもちろんのこと、あまり普段クラシックを聴かない方にはヴァイオリン・ソナタ ホ短調も聴いてみてほしいのですが、それはまた別の音楽。どこかまた別の機会でお話しさせてください。

 

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