エッセイ&特集

クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル2021日本公演を聴いて

 

2021年12月4日(土)、埼玉県の所沢市にある所沢ミューズ・アークホールで、ポーランド出身の名ピアニスト、クリスチャン・ツィメルマンのリサイタルを聴いてきました。

クリスチャン・ツィメルマンは1956年、ポーランド生まれ。
1975年のショパン・コンクールで史上最年少の18歳で優勝して以降、現在にいたるまで、ずっと世界の第一線で活躍し続けているピアニストです。

 

現代ピアノでのバッハ演奏の難しさ

リサイタル前半は、バッハのパルティータ第1番と第2番。

開演時間を過ぎて、聴衆はすでに客席についていて、そこからかなりの静寂の時間があってから、ツィメルマンはようやくステージに姿を見せました。

 

そして、パルティータ第1番が始まりました。

第1番の第1曲「プレルーディウム」。
始まりは思いのほか控えめで、もっと明朗な音楽が響くと思っていたので、少し意外な感じがしましたが、けれども、美しいやわらかい響き。

いつもながらの完璧なテクニックで、どこをとっても申し分ない美しさです。

なのに、どうしてなのか、夢中に聴き入ることができない何かが、次第に感じられてきました。

 

それは第2曲アルマンドの流れるような音楽になっても、第3曲のコレンテになっても変わらず。
何かがずっと引っかかっている感覚がぬぐえません。

ツィメルマンが何かを追い求めているのに、それが獲得されていないような、そうした感覚でした。

 

それが、この時代に、チェンバロでもピアノフォルテでもない、現代のピアノでバッハを演奏することがいかに難しいかということなのだと、第4曲の「サラバンド」を聴いているあたりでわかってきました。

 

現代は、古楽の研究が十分に進んで、「作曲された時代の楽器で弾く」というのが、ほとんど常識化している時代です。
ピアノでバッハを弾くことが、昔のように容易ではない時代になっています。

そんななかでも、ツィメルマンは、モダン・ピアノを通してだからこそ到達できる独自のバッハの世界を、繊細に追い求めているようでした。

 

もっとモダン・ピアノの芳醇な響きを前面に押し出して、もっとロマンティックな方向にふりきってしまえば、より自由な演奏に聴こえるだろうし、あるいは逆に、もっと響きを切り詰めて、もっと固い、峻厳な世界にふってしまえば、より古楽に近い世界観に、楽に行けるはずです。

 

けれども、彼はそのどちらをも、徹底して避けていました。
現代のピアノの美しい音色を最大限に引き出しつつも、それがロマンティックな音楽へ傾斜することを自らに禁じているようでした。

そう、この禁欲的な姿勢こそ、彼のピアニズムの大きな特徴のひとつなんだと、今ごろになって初めて気づくことができました。

 

ツィメルマンの両手から紡がれている音そのものは、現代ピアノの最上の美しさを誇る音。
芳醇でやわらかな、豊かな音です。
でも、その音で描き出されようとしているバッハは、対照的に、禁欲的な造形を求められていました。

その大きな矛盾のなかに、ツィメルマンは彼自身のバッハを懸命に実現しようとしていました。

 

そして、その模索のなかでたどり着いた、第1番の第6曲「メヌエットⅡ」。

まったく予想もしていなかった、まるで教会の鐘が鳴り響くような音響がツィメルマンによって創造された瞬間、それまでの点が線でつながったかのような音楽が出現しました。

それは決してバロック時代の楽器では再現不可能なもの。
あの瞬間にこそ、現代ピアノでしかできない音の響きによる、創造性あふれる音楽がみごとに開花していました。

あんなメヌエットⅡの弾き方は初めて聴きました。

このメヌエットから終曲の「ジーグ」にかけては、ツィメルマンがずっと探し求めていたものが姿を現したような時間の連続で、創造的で新しく、それでいて、まぎれもないバッハの世界が展開していました。

バッハ:パルティータ第2番

次に演奏された第2番ハ短調は、第1番で見られた抑制から解放されたかのように、力感のある「シンフォニア」の演奏による、壮麗な開始でした。
息もつかせぬという勢いで、音楽がどんどんと畳みかけられてきます。

それは第1番との対比だったのかもしれませんが、ただ、その奔放な音の流れがたどり着こうとしているものが、私にはいまひとつつかみ切れませんでした。
そして、そうした後に続いた、とりわけ第4曲サラバンドなどでは、やはりあの禁欲的な音楽づくりが顔を出します。
第1番の前半で感じられたもどかしさが、ここでも、やはり息苦しいほどです。

その反動なのか、第5曲「ロンド」から終曲「カプリッチョ」にかけては、再びピアニズムの放流があって、音楽が一気に駆け上がっていきました。
駆け上がったものの、私は置いていかれた感じの方が強かったです。

 

きっと彼自身、結論にたどり着いていないという感覚をもってらっしゃるはずです。
だからこそ、ああしてバッハと常に対峙していたはずで、第1番のパルティータの演奏中、ほんの数か所ですが迷いが感じられた瞬間があったようにすら、私には聴こえました。

 

ツィメルマンの音

でも、私はそうした真摯な姿勢を持つ音楽家が大好きです。
そうした音楽家の歩みに立ち会えるということこそ、優れた音楽家を聴きにホールへ足を運ぶ価値のひとつです。

ツィメルマンの選ぶ道は、決まって王道です。
小手先の解決を求めません。

そして、実際、このパルティータ第1番の後半では、じつに創造的な音楽が出現していました。
あの瞬間を現実に創造できたということだけでも、彼が音楽史に名前を刻む、本物の芸術家であることの証明のようなものです。
あんな素晴らしいバッハは、あの瞬間、世界中どこをさがしても、日本の所沢でしか鳴り響いてなかったでしょう。

 

ツィメルマンが求め、たどり着いた、あの素晴らしいパルティータを聴いていて感じられたのが、ツィメルマンにとっての「音色」の重要性です。

とにかく音が美しい。

もちろん、彼はいまさら誰が言う必要もないくらい、世界最高の演奏技術と音楽性を持った大ピアニストです。
ショパン・コンクールを最年少で制覇しているヴィルトゥオーゾですから、音色が美しいのは、当たり前と言われればその通りなんですが。

 

バッハで見られた禁欲的な姿勢というのは、アゴーギクやディナーミクへの強い抑制です。
テンポの緩急を自由にとることを自らに禁じて、音量のダイナミクスにも抑制がかけられていて。

そうなったときに、より一層の表現の手段として、“ 音色 ”というものが、ものを言う手段として最大限の表現力を誇っていました。

そうして、ここぞというときに、ただでさえ美しい音色の、そのさらに一段上の美しさが登場します。
あんなことは、いったい世界で何人のピアニストができることなんでしょうか。

 

その音の美しさ、それもモダン・ピアノだからこそ引き出される音のパレット。
それが見事に創造的に花を開いていたのが、先に述べたパルティータ第1番の後半だったということになります。

あれは脱帽の芸術、類まれなバッハでした。

 

ブラームスの間奏曲

後半は、ブラームスの間奏曲で始まります。

ブラームス晩年のロマンティックな小品集。

ブラームス本人が人前で自作を弾くと、いつも非常にはにかんだような、恥ずかしそうに、控えめに演奏していたというのが、彼の伝記などによく書かれていますが、それが、まさに目の前で展開されているような光景でした。

 

きっとブラームス本人による演奏は、こうだったんじゃないかという思いで聴いていました。

ここでもツィメルマンの姿勢は抑制が効いていて、ブラームスのこの静かな歌の数々が、ロマンティックになりすぎることを嫌います。

正直、もっとロマンティックに弾いてもいいんじゃないかと言いに行きたいくらいでした。

 

ただ、やはりこの曲でも、ここぞというときに、呼吸もはばかられるくらいの、最弱音による美しい音が響きました。
息をのむような音というのは、あの音のことです。

控えめなブラームスの最後の音は、まったくの静けさのなかに、露のように消えていきました。

 

圧巻のショパン演奏

そして、この日、何より圧巻だったのが最後のプログラム、ショパンのピアノ・ソナタ第3番です。

その第1楽章。
第1主題、そして、第2主題、やがてやって来る展開部での主題の発展と錯綜。
そうしたソナタ形式の“ 形 ”の美しさ、主題や動機の展開のドラマが目に見えるようにわかる演奏。

 

“ 形式 ”というものを重視しているのは特に、あの美しい第2主題の扱いではっきりと示されました。

以前、この曲をマリア・ジョアン・ピレシュの演奏会で聴いたときには、あの第2主題は沈み込むような深さで、とっても静かに、その美しさが必要とするだけの時間を十分に与えられて、彼女の心からの音楽が歌われていました。

それは本当に時が止まったかのようで、その美しさは今でも忘れられません。

 

それと対照的に、ツィメルマンの第2主題の歌い方には適度な抑制がかけられていました。

この旋律は扱いが難しいところで、弾きようによっては、突然“ 夜想曲 ”が始まったかのようになってしまうところです。
そのギリギリのところを見事にやってのけたのがピレシュだったとすれば、ツィメルマンの方は、美しいけれども、決して歌いすぎないように、細心の注意をもって弾かれていました。

これはあくまでソナタ形式における、提示部での第2主題なのだということ。
独立したものになってはいけないということです。

だからこそ、展開部での主題の発展の高揚が見事に実現されていて、私はショパンのソナタ演奏で、ここまではっきりと音楽の発展と推移が形式の美しさをともなって提示されたものを聴いたことがありませんでした。

 

そして、さらに脱帽させられたのが、フィナーレのテンポの設定です。

 

この楽章が気持ちゆったり目のテンポで、飛んだり跳ねたりせず、行進曲のような堂々たる風格をもって演奏されるのを初めて聴きました。

始まった瞬間、まさにこのテンポこそ正しいものだと納得させられる、確かな重みのある、凄い音楽が始まりました。

それはまるで、ブラームスのピアノ・ソナタのようで、ブラームスという作曲家は若い頃にピアノソナタを3つ書いて、それで以降このジャンルから手を引いてしまいましたが、もしかしたら、ブラームスは本当はこういうピアノ・ソナタを夢見ていたんじゃないかと思うほどでした。

 

「ピアノ・ソナタ」という、多楽章形式の音楽のフィナーレとして、十分な器を持った第4楽章が提示され、それがツィメルマンによる圧倒的なピアニズムによって、確信をもって堂々と展開されていきます。

それはもちろん、“ ショパンによる ”圧倒的なピアニズムと言い換えてもいいわけで、曲は圧巻のコーダでしめくくられました。

あまりの見事さに、しばらく我を忘れる思いでした。

“諸君、脱帽したまえ、ここに天才がいる!”という、あの有名なシューマンの言葉、ショパンを世界に紹介したときの言葉を思い出さずにはいられませんでした。

 

ショパンとブラームスの近親性

考えてみれば、この日はバッハからブラームスへとドイツ音楽が演奏されて、最後にポーランドのショパンのソナタでした。

これがオーケストラの演奏会で、バッハ、ブラームスと来て、最後にショパンだとしたら、ちぐはぐな印象を受けるはずです。

 

ところが、ここに展開されたショパンの演奏は、まるで「ブラームスの夢」のような音楽。
バッハとブラームスの音楽をしっかりと受け止めるショパン像が打ち立てられました。

 

音楽史において、ショパンは突然変異的存在であるというのを何かで読んで、まさにそうだと思っていましたが、これを聴いてしまうと、そんなこともないのかもしれないとさえ思えてきました。
ショパンの音楽とブラームスの音楽に、近親性があるということ。

まさにドイツ的といって間違いのない、音の構造物としての「ソナタ」を書き上げたショパンの姿がそこにありました。

ショパンと同じポーランド出身のツィメルマンには、いくらかでもドイツ人の血が入っていたりするのでしょうか。
ここまで「ソナタ形式」を見事に昇華できる音楽家は、世界広しと言えど、ほとんど絶滅危惧種といっていいほど貴重な存在でしょう。

あるいは、偶然、非常にドイツ的な感性に恵まれていたのか。

こうして聴いていると、彼が若いころからカラヤンやバーンスタイン、ジュリーニと言った20世紀の大指揮者たちに好まれていた理由が、はっきりとわかる思いがしました。

 

ツィメルマンの「形式」への構築性

ショパンの前のプログラム、つまりバッハとブラームスで、もどかしく感じられた、ツィメルマンの抑制の美学。
それが、ショパンではもどかしく感じられなかったというのは、とても面白いことでした。

それはきっと、ショパンの「ソナタ」が演奏されたからでしょう。
メインにショパンのワルツやノクターンが演奏されたなら、ここまでの感動はきっと得られなかったと思います。

 

20世紀の巨匠レナード・バーンスタインが、ブラームスについて「彼が古典的形式や音楽の秩序にこだわったのは、彼の内面から溢れている情熱が分裂するのを防ぐためではなかったか」というような内容の発言をしていたはずです。

そのブラームスへの見解は、このツィメルマンのショパンにも当てはまるように思います。

「ソナタ」という、クラシックの最高の音楽形式で構築された楽曲が選ばれていたからこそ、ツィメルマンが抑制している自身の溢れ出る音楽が、その枠組みのなかで自由につばさを広げることができたんだと思います。

 

その点で、彼は現代では非常に貴重な、古典的造形の大家ということになります。

演奏会後、一緒に聴きに行った友人から、あの大ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインがツィメルマンのことを「ブラームス弾きだね」と言ったというエピソードを教えてもらいました。

さすがルービンシュタインです。
古典的造形とロマンティシズムのはざまで揺れ動くピアニズム。
私のような人間が何度も何度もリサイタルに通って、ようやく何年もかかって気づいたことを、とうの昔に端的に示唆していたのですから。

 

これからもツィメルマンに期待したいのは、そうしたブラームスやベートーヴェンなどのソナタ、溢れるロマンティシズムを形式ある音楽のなかへ昇華させた傑作群ということになるでしょう。

あれは本当にすごいショパンのソナタ演奏でした。

 

親日家ツィメルマン

本当に幸運なことに、ツィメルマンは日本を愛してくれているようで、日本に住まいも持っているそうです。
名声を盾にやたらと演奏会を開かず、1年に開く演奏会の数を厳しく制限し、プログラムも厳選しているこの大ピアニストが、ほとんど毎年と言っていいほど日本でコンサートをしてくれるのは、私たちにとって、とても恵まれたことです。

ピアノのコンサートを体験してみたいという方には、まず第一にお薦めしたいピアニストです。
そして、この人を聴きに行く場合には、予習は少しした方がいいかもしれません。
そして、その価値は十二分にあります。

彼の新しい公演の情報が見つかったら、お薦めのコンサートのページで紹介していきます。

というわけで、今日聴いたプログラムは以下のものでした。
バッハ:パルティータ第1番変ロ長調BWV825
バッハ:パルティータ第2番ハ短調BWV826
ブラームス:3つの間奏曲Op117
ショパン:ピアノ・ソナタ第3番ロ短調Op58

アンコールはなく、こうした蛇足がないところも、自身が組んだプログラミングへの自負が感じられます。

 

ツィメルマンの録音

こうして気づいたのですが、今回のプログラムにあった曲は、どれもレコーディングされていないようです。

なんでも数年前に出したシューベルトのソナタ集は、およそ25年ぶりのソロ・レコーディングだったそうです。
これだけの大家が25年ぶりというのは、私が想像しているのを遥かに超えた節制、自身の演奏への厳しい姿勢があるのでしょう。

さらには、レコードや初期のCDでは出ていたブラームスのピアノソナタ集やモーツァルトのピアノソナタ集、ショパン・リサイタルなどの録音が現在入手できないのも、おそらくご本人が何らかのストップをかけているんでしょう。

 

というわけで、現在聴くことのできる録音は非常に数が限られたものです。

そのなかでやはり印象的なのは、ショパンのピアノ協奏曲集を自分の結成したオーケストラで弾き振りしたもの。
大胆に表現主義的な方向にふりきった、確信に満ちた演奏。
こういうこともできちゃう人。
( Apple Music↓・Amazon MusicSpotifyLine Music などで聴けます。CDはAmazonタワーレコードなど。)

 

彼にはそれ以前にもショパンの協奏曲のレコーディングがあって、それはカルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロサンゼルス・フィルハーモニーとの共演でした。
ジュリーニはイタリア出身の指揮者。
私はジュリーニが大好きで、彼の真摯で、端正で、情熱と抒情の同居する伴奏が聴きたくて、この古いほうの録音を聴くことも多いです。
こちらでも、ツィメルマンは素敵な演奏を繰り広げています。
( Apple Music↓・Amazon MusicSpotifyLine Music などで聴けます。CDはAmazonマーケットプレイスで手に入る古いものをお薦めします)

 

YouTube上でまるまる聴けるものとしては、ショパンのスケルツォ第2番(YouTubeリンクしてあります)の公式映像。
まだまだ若かったころのツィメルマン。
でも、すでに端正な、抑制の効いた演奏がなされています。

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