コンサートレビュー♫私の音楽日記

マーラー室内管弦楽団の首席オーボエ 吉井瑞穂さんのリサイタルを聴いて~音楽の映すもの

 

もしかしたら、吉井瑞穂(よしい・みずほ)さんは、私が思っているより、まだ知名度がなかったりするのでしょうか。

会場に足をはこんでみると、客席は6~7割ほどしか埋まっておらず、ちょっと驚いてしまいました。

 

吉井瑞穂さん

 

いつごろだったか、ベルリン・フィルの公演などをテレビで見ていると、オーボエの席に日本人らしき女性の奏者がいるのをちらほらと見かけるようになりました。

そして、あのイタリアの巨匠クラウディオ・アッバード(1933-2014)が「夢のようなプロジェクト」と呼んだルツェルン祝祭管弦楽団にも、その女性の方が参加していらっしゃいました。

 

ルツェルン祝祭管弦楽団は、アッバードを芸術監督にむかえて2003年に大幅に改組、ベルリン・フィルやウィーン・フィル、バイエルン放送交響楽団などの錚々たるメンバーにくわえ、さらには、クラリネットのザビーネ・マイヤー、チェロのナターリャ・グートマン、ハーゲン四重奏団といった、普段はオーケストラで演奏していない超一流のアーティストたちまでが参加して、信じがたいメンバーで構成されるドリーム・チームのようなオーケストラに生まれ変わりました。

そして、やはりそこにも、その女性のオーボエ奏者の方が参加されていました。

 

ルツェルン祝祭管弦楽団の旗揚げ公演でのドビュッシー:交響詩《海》の公式配信(YouTubeで視聴できます)で、ベルリン・フィルの首席オーボエ奏者アルブレヒト・マイヤーの隣に映っているのが、今、話題にしている女性のオーボエ奏者です。

 

あとになって、その方が吉井瑞穂(よしい・みずほ)さんというお名前で、アッバードが創設したマーラー室内管弦楽団の首席オーボエ奏者を務めていらっしゃる方だと知りました。

 

 

プログラム

 

その吉井瑞穂さんのソロ・リサイタルを、今回、初めて聴いてきましたので、つれづれに綴ってみたいと思います。

 

このリサイタル、当初は、以下のような曲目・曲順が発表されていました。

シューマン:アダージョとアレグロ op70
シューマン:3つのロマンス op94
ヒンデミット:オーボエ・ソナタ
レシェティツキ:ベートーヴェンの主題による変奏曲
ハース:オーボエとピアノのための組曲

 

これが、当日、シューマン:「蓮の花」の追加が発表されて、全体の演奏順も変更されました。

2022年10月2日(日)14:00@三鷹市芸術文化センター風のホール

シューマン:「蓮の花」~歌曲集『ミルテの花』op25
シューマン:3つのロマンス op94
レシェティツキ:ベートーヴェンの主題による変奏曲
シューマン:アダージョとアレグロ op70
(休憩)
ヒンデミット:オーボエ・ソナタ
ハース:オーボエとピアノのための組曲

【アンコール】
シューマン:「美しい五月には」~歌曲集『詩人の恋』op.48
シューマン:「献呈」~歌曲集『ミルテの花』op.25

piano, 岡純子

 

結果的に、この変更がとってもすばらしい変更となっていました。

 

 

前半の白眉は「アダージョとアレグロ」

 

この変更によって、前半はシューマンの音楽が前面に出て、シューマン作品でレシェティツキを挟んだようなプログラムになりました。

 

マーラー室内管弦楽団で首席奏者をつとめている方を、今さら、私が「上手だ」とか「うまい」とか言っても仕方がないのですが、ただ、最初の「蓮の花」が始まると、低音がちょっと吹きづらそうでした。

つぎの「3つのロマンス」も同様で、これは私がとくに好きなオーボエ作品でもあったので残念でした。

何となくフレーズも落ち着かないというか、ほんの少しですが、歌い切れず、先を急いでいるような感じがしないでもありませんでした。

 

ですので、正直「期待が大きすぎたんだろうか」と少し肩透かしをくったような始まりだったのですが、それでも、とりわけ高音域で歌うところになると、それはもう、ほんとうに美しい音色が聴かれて、やはり、それは超一流のオーボエであり、言葉もありませんでした。

 

オーボエというのは、リード調整が極度にむずかしい楽器だと聞いたことがあります。

ですので、きっと、あの冒頭のシューマンの2作品はリードが言うことをきいていないんじゃないかと想像しながら聴いていました。

 

このシューマンのあとに一度舞台袖に下がられて、それから音が変わったように聴こえたので、リードを交換するか何かなさったのではないでしょうか。

といっても、オーボエに特に詳しいわけではないので、もしかしたら、私の思い違いかもしれませんが。

 

 

前半の白眉は、最後に演奏されたシューマン:「アダージョとアレグロ」でした。

これは、最初のアダージョの部分の夢見るような美しさといい、後半のアレグロの巧みな歌いまわしといい、シューマンの音楽につつまれる、素晴らしい演奏でした。

やっぱりこの人は凄いと、わくわくする演奏でした。

 

そして、このリサイタルが素晴らしかったのは、まさにここからで、後半のプログラムはいっそう深い音楽体験となりました。

 

ヒンデミット

 

休憩後の後半は、まずパウル・ヒンデミット(1895~1963)の「オーボエ・ソナタ」で始まりました。

 

当日配られたプログラム・ノート(文:木幡一誠さん)によると、ナチスによってドイツを追われ、スイスに居を移し、最後にはアメリカへ亡命したヒンデミットが、まさにその時期、1938年に書いたのがこの作品とのこと。

現在のウクライナ情勢を意識しての、吉井瑞穂さんによる選曲だと思います。

 

私は初めて聴く作品でしたが、行進曲風の第1楽章を聴いていると、そこここに、あのショスタコーヴィチのような諧謔的なニュアンスが聴こえてきます。

屈折せざるをえない音楽。

諧謔的な音楽表現は、何もショスタコーヴィチの専売特許ではなくて、それはあの時代の様々な作曲家たちがたどり着いた表現でもあり、きっと、それを最も色濃く映しだしたのがショスタコーヴィチだったのでしょう。

 

吉井瑞穂さんの音も、前半のシューマンとは対照的に、おそらく意識的に、強く、太い線が描きだされていきます。

 

第2楽章はエレジー(悲歌)のような寂寥感あふれる旋律と、それに対比するような、不安と怒りが錯綜するようなリズミックな音楽で構成された楽章。

時代に翻弄されたひとりの人間の心の反映を聴いているようで、聴いているこちらの心にも、だんだんと重いものが映し出されてきます。

吉井瑞穂さんとピアノの岡純子さんが構築する音楽は、それでも力強い意志が込められたヒンデミットの音楽の核もまたしっかりと捉えて離さず、まるでヒンデミットの肉声を聴いている想いがしました。

 

 

 

ハース

 

後半の2曲目であり、プログラムの最後となった作品は、モラヴィアの作曲家パヴェル・ハース(1899-1944)の「オーボエとピアノのための組曲」でした。

 

もしかしたら、ハースの名前はそこまで知られていないかもしれませんが、ここ数十年、その再評価が進んでいる作曲家です。

ユダヤ系であったために、ナチスにより、1944年、あのアウシュヴィッツ収容所で命を落としています。

まだ45歳の若さでした。

 

ヒンデミットにひきつづき、後半のプログラム全体が、現在の世界情勢を意識しての選曲になっていることがわかります。

 

パヴェル・ハースの作品は、私は中学生のころに、まだ新進指揮者だったサイモン・ラトルがベルリン・フィルと《弦楽のための習作 Study for strings 》という作品を演奏するのをラジオでたまたま耳にして、一度聴いて、強烈な印象を与えられました。

残念ながら、そのコンビのレコーディングはないようなので、ここではニュー・チェコ室内オーケストラが演奏したものをご紹介しておきます。

 

( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)

 

今回とりあげられた『オーボエとピアノのための組曲』については、私は初めて聴く作品でした。

 

プログラム・ノートによれば、この作品は、ナチスがちょうどポーランド侵攻を開始した時期に書かれた作品とのこと。

ただ、仮にそうした事情を知らなかったとしても、この作品には、なにか尋常ならざるものを聴きとらずにはいられない、切迫したものがはっきりと感じられます。

 

何度もくりかえされるのに解決することはなく、進んでいくのにさまよっているかのような和声の進行。

出口がどうしても見つからないような音のつらなり。

 

この曲は、オーボエもさることながら、ピアノの雄弁さにも耳をうばわれる作品でした。

その響きに耳を澄ませていると、いつのまにか、どんよりとした、灰色の景色が心のうちに広がっていきます。

 

研ぎ澄まされた音の結晶は、そのクリスタルのような純度の高さのいっぽうで、刺さるような、凍えるような寒さを感じさせずにいません。

荒涼とした音の世界。

 

あの当時、作曲家をとりまいていたであろう閉塞感に満ちた世界に、自分が包まれていくのがわかります。

 

それでも、この絶望的なまでに美しい音楽が、思いがけずも、最後の最後になって、長調の響きに終結したときには、戸惑い、驚き、それでもハースは、この音楽にかすかであっても希望を込めたのだろうかと、灰色の風景のさきに、少しだけ青い空がうつったような、それだけに、なおいっそう悲しい感動を覚えずにはいられませんでした。

 

 

音楽が映し出してきたもの

 

予定されていたプログラムがすべておわって、そのあと、盛んな拍手に応えて、アンコールが演奏されました。

 

ピアノの前奏がはじまって、あ、シューマンの《5月に》なんだとわかりました。

それから、前奏にみちびかれてオーボエが奏し始めた途端、ほんとうに思いがけず、不意に、涙がこみあげてきました。

 

何かしらのシューマン作品が演奏されるだろうとは、予想していました。

でも、予想していたシューマンは、実際に音で響くと、予想をはるかに超えたものとして響いてきました。

 

さきほどまで、社会の混迷、人間の不安、絶望的なまでの悲しさをうつしだしていた音楽という鏡に、かつては、これほど美しい恋の歌が映っていたんだという、その落差。

シューマンが美しければ美しいほど、懐かしければ懐かしいほど、ハースやヒンデミットが紡がなければならなかった音楽の寂寥感が、なおいっそう深く、強く感じられてきました。

 

音楽という存在が、時代、時代に映しだしてきたもの。

そのあまりの違いに、大きく心が揺さぶられた瞬間でした。

 

音楽は、本当に人間とともにあって、しあわせなことも、嫌なものも、たくさん見てきたんだということ。

それでいて、シューマンは言うに及ばず、ハースやヒンデミットの音楽もまた、それでもなお、美しいということ。

 

この日演奏されたすべての音楽が、一斉にふりかかってきたようなアンコールのシューマンに、私はただただ圧倒されていました。

 

 

きわめて音楽的な変更

 

吉井瑞穂さんのリサイタルは、それから、さらにシューマンがもう一曲、こちらも素晴らしい《献呈》が演奏されておわりました。

 

冒頭にご紹介したとおり、プログラムが変更されたおかげで、前半にシューマンを主体とした音楽、後半には第2次世界大戦の時代が反映された音楽、そして、アンコールでシューマンが帰ってくるという、とても示唆にとんだプログラムになりました。

それも『ミルテの花』に始まり、『ミルテの花』におわるという美しさ。

 

こうしたプログラム構成ができるだけでも、この方が並の音楽家でないことがはっきりとわかります。

行われた変更は、きわめて音楽的な変更であって、吉井瑞穂さんが非常に音楽的な感性にあふれた演奏家であり、リサイタルに対しての真摯な姿勢の表れにもなっていたと感じています。

ピアノの岡純子さんも、共感にあふれた演奏ですばらしかったです。

とりわけ、後半のヒンデミットとハースにこれだけ感動できたのは、あの伴奏があったからこそだと感じています。

 

ほんとうは、ここで吉井瑞穂さんのレコーディングしたアルバムなどをご紹介したいと思ったのですが、まだ、ソロでレコーディングした類いのものは出ていないようです。

 

オーボエという楽器は、どうもそうした傾向があるようで、特にオーケストラで活躍している方のソロ・アルバムというのは極端に少ない印象があります。

クラリネット奏者のアルバムは比較的あるのに、例えば、ベルリン・フィルのコッホやシェレンベルガーといったオーボエの名手中の名手のソロ・アルバムは、驚くほど少ししか存在していません。

 

吉井瑞穂さんには、できれば、ハースの作品はレコーディングしてもらえたらと思います。

 

この記事を読んでいただいた方には、どうしてもハースの作品には触れてみていただきたいので、吉井瑞穂さんではないのですが、やはりオーボエの名手であるトーマス・インデアミューレの録音でご紹介させてください。

Haas: Suite for Oboe and Piano
ハース作曲:「オーボエとピアノのための組曲」全3楽章

( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)

 

オンライン配信の音源の聴き方については、「クラシック音楽をオンライン(サブスク定額制)で楽しむ~音楽好きが実際に使ってみました~」のページでご紹介しています。

 

 

吉井瑞穂さんは、現在、活動の拠点を鎌倉に移していらっしゃるとのことなので、リサイタルなど生演奏に触れられる機会は、今後、増えてくるはずです。

こうした名手の、これほど真摯なプログラミングのリサイタルが、6~7割の入りではいけません。

 

このブログでも、「コンサートに行こう!お薦め演奏会」のページで、気になる公演を見つけたらご紹介していこうと思っています。

 

 

吉井瑞穂さんのオーボエ・リサイタル、とても素晴らしい、忘れがたい音楽体験になりました。

 

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