【こちらは以前、noteにて公開していたものですが、ブログ本体に移動しました】
このブログには「コンサートに行こう!お薦めの演奏会」という、コンサートをご紹介するページがあるのですが、「どのコンサートに行こうか迷ったときは、まずはジョナサン・ノットが指揮する東京交響楽団のコンサートに出かけてみてください」と書いています。
そう書いておいて何ですが、じつは私が彼らの演奏の素晴らしさに気づいたのは最近で、ほんの数年前のこと。
というのも、お恥ずかしい話ですが、このコンビの誕生を疑いの目で見ていたからです。
目次(押すとジャンプします)
指揮者ジョナサン・ノット
指揮者ジョナサン・ノットのこと
ジョナサン・ノットは1962年、イギリス出身の指揮者です。
彼の名前を、私はかなり昔から知っていました。
それこそ20年ほど前から知っています。
あのころはクラシック音楽の情報が今のように簡単には手に入らなくて、とにかく音楽に飢えていた私は、本屋さんでクラシック音楽のCD情報が書かれたカタログ、いわば電車の時刻表の冊子のようなものまで買ってきては、よくよく眺めていました。
そこに、まだ若き日の指揮者ジョナサン・ノットが、ハンガリーの現代作曲家ジョルジュ・リゲティの作品集をベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とレコーディングしたCD情報が載っていました。
たったそれだけのことなんですが、妙にそのことが強く記憶されて、名門ベルリン・フィルを指揮するような音楽家のひとりに「ジョナサン・ノット」という人がいるというのはすぐに覚えてしまいました。
たった1回の共演で?
そんな彼がだんだんと有名になってきて、それからしばらくして、日本の東京交響楽団の音楽監督になるというニュースを耳にしました。
それも、何と、たった一度のコンサートで相思相愛の関係になってしまって、音楽監督への就任が決まったということ。
これを私は「ちょっとうさんくさい」と思ってしまいました。
音楽監督のような重要なポストを、たった1回一緒にコンサートをやった指揮者に要請するオーケストラもどうかしているし、それを快諾した指揮者もどうかしている。
きっと、出世街道を歩んでいる中堅指揮者と日本の音楽マーケットがうまく絡んだだけだろうと、疑いの目で見てしまったわけです。
なので、まったく彼らのコンサートに出かけていこうとすら思いませんでした。
10年も延長
それがいつだったか、この両者が契約を10年も延長するというニュースが聞こえてきました。
さすがにこれは、目を開かされるニュースでした。
「もしかしてジョナサン・ノットは、本気で日本で仕事をしているんだろうか?」と、その段階になってようやく、私はコンサートホールへ足を運んでみることにしました。
そうして初めて聴いた彼らのコンサートは、プログラミングからして刺激的で、演奏内容も新鮮、アンサンブルが驚くほど繊細でシャープ、かつ、驚くほどダイナミックですらありました。
つまらない邪推をしていた私は、そのたった1回のコンサートで完全に征服されてしまいました。
ジョナサン・ノットと東京交響楽団は、何のことはない、本当に“ 相思相愛 ”なのであって、それは純粋に幸福な結びつきだったわけです。
「日本のオーケストラは世界に引けを取らない水準にある」というのは、もう随分前から言われていることではあるんですが、でも、このコンビに出会うまでは、実際にコンサートホールへ行ってそれを実感できる回数というのは、そこまで多くなかったというのが私の率直な思いです。
でも、今はこのコンビを聴くたびに思います、「日本にも、世界最高水準の演奏を繰り広げているコンビが確かに存在しているんだ」と。
2022年5月22日のコンサート・レビュー
2022年5月22日のコンサート
この文章は、2022年5月22日(日)14:00~ミューザ川崎で行われたコンサートを聴いてから書いています。
耳の奥の高揚がおさまらず、もう日付が変わって午前3時になっているのにどうにも眠れないので、こうして記事を書きはじめている始末です。
演奏されたプログラムは以下の通りでした。
R・シュトラウス:交響詩《ドン・ファン》
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番
piano、ぺーター・ヤブロンスキー
trumpet、東京交響楽団首席トランぺッター 澤田真人
(pianoアンコール)ショパン:マズルカ第47番
ウォルトン:オラトリオ《ベルシャザールの饗宴》
Br、ジェームズ・アトキンソン
Chor、東響コーラス
ドン・ファン
交響詩《ドン・ファン》はよく演奏される人気作品ですが、スコアを見てもどういう音楽が鳴るのか予想できないと言われるくらい、アンサンブルが複雑な難曲でもあります。
ノットと東京交響楽団は、むしろそれだからこそ果敢に切りこんで行くような、きわめて鮮烈で、シャープな演奏を展開しました。
勢いの良い演奏であるのに、実際には細かなところまで実に丁寧に彫琢されていて、特にリズムの処理をくっきりと丹念に行っていて、このコンビの高い合奏能力と音そのものへのこだわりを感じさせられました。
それでいて優等生のような、正確さを前に出した演奏に終始しないのが、このコンビの面白いところで、随所で強いアッチェレランドがかけられて、特におしまいのところでは猛烈な追い込みまで見られました。
この曲は「満たされることのない理想を追い求めた者の悲劇」を扱った音楽ですが、ノットはそうした悲劇性より、シュトラウスが書いたスコアの緻密さ、オーケストラの能力を全開にさせるような筆致を鋭く描き出すことに執心していて、そうした方向から説得力のある力演に到達していました。
これを“ 第一級の演奏 ”と言っても、きっと誰も異論はないはずです。
珍しいアクシデント
ちょっとわき道にそれます。
この《ドン・ファン》の演奏中にステージ上で大きな物音がして驚いたんですが、どうやらコントラバスの弦を支える駒がはずれて落下してしまったようでした。
今までいろいろなコンサートに行きましたが、コントラバスの駒が落ちるというのは初めて見ました。
こうした何気ない一場面も、良いコンサートのときは楽しい思い出になります。
演奏会終了後のカーテンコールのときに、指揮者のノットが「あれは驚いたね」といったような笑顔でコントラバス奏者をねぎらっていました。
ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲
2曲目のショスタコーヴィチは、作品がピアノ協奏曲なので、当然ペーター・ヤブロンスキーのピアノ・ソロがメインではあるんですが、ここでもやはり、私はオーケストラ伴奏の雄弁さに耳を奪われました。
指揮者のなかには、協奏曲になると「オーケストラはあくまで伴奏ですから」と指揮ぶりが大まかになる人も少なくないですが、ジョナサン・ノットの鬼気迫る指揮はまったくすばらしいものです。
そのリズムの冴え、切込みの鋭さ。
そして、その俊敏な棒に、見事なほど機敏に反応するオーケストラ。
しかも、そうしたシャープな面だけではありません。
もしかしたら、それ以上に印象的だったとも言えるのが、第2楽章で聴かれた弦楽器による静かで冷たい音。
私たちがショスタコーヴィチ作品を聴くと感じる寂寥感、あの紛れもない「ショスタコーヴィチの音」が、まるで冷気のように、ホールの奥の奥、そして、聴いている私の心の奥まで流れ込んできました。
ベルシャザールの饗宴
素晴らしい前半の演奏はそれだけでも十分に特筆されるべきものでしたが、それほどの2曲の優れた演奏があったとしても、やはり、この日いちばんの聴きものは、後半に演奏されたウォルトンのオラトリオ《ベルシャザールの饗宴》でした。
このオラトリオは、大編成のオーケストラに合唱団、パイプオルガンまで導入される壮麗な作品で、この日もステージには200名を大きく超える編成が組まれました。
そのスペクタクルで祝祭的な性格から、ウォルトンの生地イギリスでは音楽祭などの特別なイベントでよく演奏されているようですが、イギリス以外の国ではそれほど演奏されない傑作でもあります。
この大作を、ジョナサン・ノットと東京交響楽団は、その切れ味鋭いアンサンブルを支えに、圧倒的なスケールで展開しました。
合唱のこと
会場で聴いていて、特に曲の前半ですが、合唱にすこし不安を感じたのは事実です。
ただ、合唱を担当している「東響コーラス」は、東京交響楽団の付属コーラスではあるものの、アマチュアの合唱団なんです。
ですから、たしかに発声や発音にもっと望みたいものがあったのは事実ですが、これだけの難曲を暗譜で歌い切っているだけでも実は凄いことであって、そもそも、このアマチュア合唱団の存在があるからこそ、《ベルシャザールの饗宴》のような大規模作品を東京交響楽団は通常のコンサートのなかに組み込むことができているわけです。
もちろん、裏を返せば、それだけのことをやって無償というのが果たして正しいことなのか。
ここにはクラシックの音楽界が抱える理想と現実の問題、もっと広く言えば「ボランティア」という概念が内包する問題が確実に存在しています。
ただ、そのジレンマのなかで、最適解かどうかは異論があるにせよ、ひとつの成果がこうして実を結んでいるのは間違いのないことです。
圧倒的な演奏と熱狂
不安を感じた合唱も、曲が進むにつれて熱を帯びてきて、私はいつの間にか、圧倒的な音響空間のなかに自分がいることに気づきました。
ジョナサン・ノットの指揮が最高に研ぎ澄まされたもので、聴いていて、いま世界中でこの曲を彼ほどの水準で演奏できる人がはたして他にいるだろうかとまで感じました。
この曲の構成と構造が、ここまではっきりとわかるくらい明晰に演奏されるのを、私は初めて聴きました。
オーケストラは大胆にして緻密、複雑な響きがのびのびと整理されて、どこまでも立体的な響きで、圧倒的で壮麗な音楽が築き上げられていきました。
クライマックスでは、会場のすべてが飲み込まれていたと表現したって、決して大袈裟ではないでしょう。
演奏終了後のブラヴォーは現在禁止のはずでしたが、演奏が終わるやいなや、割れるような拍手と同時にブラヴォーの声が飛び出していました。
空席
こんな凄い演奏を、日本のコンサートで、通常の定期演奏会で実現しているコンビがいるんです。
でも、客席にはまだ少し空席がありました。
これではいけません。
あれほどの演奏を成し遂げている彼らのコンサートは、当然のこと、満席になって正当な評価を得なければいけません。
それが健全な「文化」というものです。
もちろん、彼らの演奏が現時点でたとえばウィーン・フィルやベルリン・フィルといった欧米の名門楽団とすでに並んでいるかと言われたら、正直まだだと思います。
でも、指揮者や演目次第では、それらの名門と並ぶ、ときには凌駕する演奏が実現されている日があるのも事実なんです。
少なくとも、彼らが世界最高峰のオーケストラの列に並ぶ、その途上にあるのは疑いようのない事実で、そして、その途上にあるからこその「上昇気流」が感じられるのも、彼らのコンサートの面白さの一因でもあります。
どのコンサートに行くか迷ったら
良くも悪くももう出来上がってしまって、「仕事」としてステージにあらわれるプロの音楽家たちの気だるさが、彼らには微塵も感じられません。
彼ら自身もきっと感じているであろう心地よい高揚感が、演奏の前から聴衆にも伝わってきます。
このコンビは現時点では2026年までの契約。
あと4年しかありません。
あと4年で終わってしまうなんて、本当にあるんでしょうか。
想像すらしたくありません。
日本にもある世界最高水準のオーケストラ・コンサート、聴けるうちに聴いておかなければなりません。
ですから、私は自分のブログでくり返し書いています。
「どのコンサートに行くか迷ったら、まずはジョナサン・ノットの指揮する東京交響楽団のコンサートに行ってみてください」。
追記:音源紹介
【このブログでは、オンライン配信されている音源を中心にご紹介しています】
オンライン配信でのクラシック音楽の聴き方については、「クラシック音楽をオンライン(サブスク定額制)で楽しむ~音楽好きが実際に使ってみました~」という記事にまとめています。
私がジョナサン・ノットという指揮者の存在を知ったアルバムが、『リゲティ・プロジェクト』と題された、ハンガリーの現代作曲家ジェルジュ・リゲティ(1923-2006)の作品をあつめたもの。
決して聴きやすいものではありませんが、コロナ禍で一躍浸透した「クラスター」という言葉にとうの昔から慣れていたのは、リゲティの好んだ“ トーンクラスター ”という、全音差や半音差の音を同時に鳴らして、極度に密集した和音の塊をつくりだす作曲技法のおかげ。
ノットは、こうした精緻な現代音楽で知名度を高めてきた指揮者で、それは、現在の東京交響楽団との多彩なプログラミングにも反映されています。
試しに聴いてみようという場合は、“ アトモスフェール ”という作品を。
( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)
東京交響楽団との現時点での最新録音は、マーラー:交響曲第1番《巨人》です。
※こちらは2022年9月現在、Amazon MusicとApple Musicのみが全楽章聴くことができます。
( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)
これまでのもので、私が特に興味をひかれたのは、ショスタコーヴィチの交響曲第10番の録音。
( Apple Music ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)
どういうわけか、今回のウォルトン:ベルシャザールの饗宴や、何年か前のサマーミューザでのバーンスタイン:「ウェストサイドストーリー」シンフォニックダンス、それから、お客さんの入りがあまり良くなかったものの秀逸だったロッシーニの作品とシューベルト:交響曲第6番を組み合わせたプログラムなどの類まれな演奏が、いずれもレコーディング&リリースされていないのは本当に悔しいです。
それでも、ジョナサン・ノットと東京交響楽団の「第九」2021、そしてスイス・ロマンドとの「第九」というレビューで触れた2019年の第九公演の録音があるのは救いです。