先日、14年間わたしの家で一緒に暮らしてくれた愛犬がこの世を去りました。
このブログは、クラシック音楽の話がほとんどすべてですが、いろいろなことを素直に感じたままに書くようにしています。
だから、ここに愛犬のことを書かないのは何か嘘になる気がするので、ただ徒然なるままにエッセーを書いておきたいと思います。
音楽の話もありますが、あくまで今日の主役は我が家の犬です。
名前はコロ
名前は“ コロ ”。
と言っても私が名づけたわけではなくて、動物病院の掲示板に「飼い主募集」のポスターが貼られていた時点で、すでに前の飼い主さんによって名前がつけられていました。
そうして動物病院経由でゆずり受けて我が家へやって来たコロは、やっぱり最初は他人に突然もらわれてきた不安があったようで、なかなか目をあわせてくれませんでした。
なので、とにかく最初は安心をさせようと、いろいろなことをしました。
近所のおじさんが「ジャーキーをまず自分の口にほうりこんで自分の唾液をつけて、それから犬にあげるっていうのを繰り返すと、匂いで飼い主を覚えられるようになるよ」とアドバイスをくれたので、実際に効果があったかどうかはわかりませんが、しばらくそれを繰り返したりもしました。
でも、きっといちばん効果があったと思っているのは、とにかく無駄に長くハグをしたこと。
わたしがコロにとって無害で、それどころか味方だよって伝わるように、とにかく時間を見つけては、じっと抱っこして過ごしました。
ハグをしていると、だんだんとコロの体の力が抜けていって、だんだんと身体をこちらにあずけてくるのがわかって、そうやって少しずつ少しずつ、信頼関係をつくっていきました。
子犬のころは、とにかく色々なものが新鮮に目に映るようで、菜の花を舞っているモンキチョウを食べようとしたり、カラスが飛ぶと自分も同じように飛び上がろうとしたり。
今も思い出すのは、ダンプカーが通るたびに、必ず動きを止めてじっと見送っていた姿です。
我が家のちかくにはいわゆるダンプ道路があるので、時間帯によっては散歩にならないくらい、1台1台立ち止まって見送られて、時間がないときなどは本当に参りました。
その散歩も、憶病な性格だったのか、とにかく最初は家のまわり以外から出ようとしませんでした。
運動のためにもちょっとずつ距離をのばしていこうとするんですが、ちょっといつものコースから外れるだけで、慎重に、石橋を叩いて渡るように、ありとあらゆるところの匂いを嗅いで、少しずつ前進する有様でした。
そんなコロもいつの間にか大人になって、そして、いつの間にか、わたしのことを信頼してくれて、心を開いてくれるようになりました。
そうしたことがいつの間にか当たり前になって、それがきっと、いつまでもずっと続くように思って過ごしていた14年間でした。
シュトラウスの音楽
去年の年末あたりに急に足腰がよわくなってきて、いよいよ老犬になってきたのかなとさびしく思っていたのも束の間、もともと持病があったせいか、つぎつぎと悪いところが出てきました。
ペットとはいえ、家族の一員がだんだんと弱っていくのは、ほんとうに辛いものです。
動物病院へ行く途中も不安な気持ちに押しつぶされそうになります。
運転しながらも色々な不安にかられて、何となく車内のカーステレオのスイッチを入れたら、流れてきたのは1990年のニューイヤーコンサートの録音。
ズービン・メータの指揮、ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇『ジプシー男爵』の入場行進曲でした。
場違いなくらい明るい響きが、けれど、驚くくらい、目の前のもやもやしていたものをすっと晴れさせて、心を落ち着かせてくれました。
そう、私の弱い心を支えてくれたのは、意外にもシュトラウス・ファミリーの音楽でした。
それ以来、車中ではシュトラウス・ファミリーの音楽を聴かずにはいられなくなりました。
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そして、シュトラウスの音楽に慰められていたのは、きっと私だけではありません。
コロは、ある日急に後ろ足がきかなくなってきて、歩くこともままならなくなってきました。
そうして、いつの間にか横になっていることが多くなってしまったコロ。
コロのそばを離れるときには、音がないのはきっとさびしいだろうと思って、ラジオをつける習慣が普段からあったんですが、ただ、今の体調の悪い状態で人間のニュースやトークの音声を聞かせていることに、何となくちがう気がしてきて、車内と同じように、シュトラウス・ファミリーの音楽、ニューイヤーコンサートの録音を流してみました。
すると、コロは耳を動かして明らかに音に反応していて、それ以来、いろいろな年のニューイヤーコンサートを流すことにしました。
ニューイヤーコンサートでは、年によってウィーン少年合唱団が出演したりするときがあって、子どもの合唱が聴こえてくると、特によく耳をそばだてていました。
散歩していても、小学校などから子どもの声が聞こえてくると、よく立ち止まって見つめていたので、きっと子どもが好きだったんでしょう。
ディナミーデン
動物病院の処置のおかげで、多少、体調が持ち直すときもあって、ある夜、わたしがリビングで下手なピアノを弾いていると、ヨロヨロとした足取りのコロが足元に近づいてきて、座り込んでしまいました。
なにか弾いて聴かせようと思い立って、せっかくなら最近聴かせているようなワルツがいいだろうと、ほとんど弾いたことないヨーゼフ・シュトラウスのワルツ『ディナミーデン』の楽譜を出してきました。
そして、とてもゆっくりなテンポで、それもつっかえつっかえしながらでしたが、でも、少なくともやさしい音になるように気をつけながら、コロのために弾きました。
コロは最後まで、ピアノのそばでじっと聴いていてくれました。
疲れて動けないからそこに居たのかどうかわかりません。
でも、私にとっては忘れられない、深く心にきざまれる時間になりました。
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忘れられない目
体調が悪いながらも、いろいろ介護が大変だとしても、そうした多少なり穏やかな時間が続いてくれたらと願っていたのですが、ある日の夕方、コロは急激に体調をくずしました。
動物病院ですぐに点滴などで適切な処置をしていただいて、最悪の事態はまぬがれました。
その点滴をしている数分間、私に見せてくれた、あのときのコロのまなざしを、私はきっと一生忘れることはないと思います。
コロは、本当に澄みきった目で、私のことだけをじっと見つめていました。
いつもなら周りで物音がしたり、看護士さんがなでたりするとそちらに目をやるのに、あの数分間、コロは周りで何があっても、私の目だけをほとんど瞬きもせず、ひたすら見つめていました。
それも悲しかったり、痛がったりしている目ではなくて、ほんとうに澄んだ、心が見えているようなまなざしでした。
飼い主のエゴかもしれませんが、「今までありがとう」と言われているような、これまで見たことがない、胸にせまる、優しくて美しい目でした。
コロは、それから数日後に亡くなりました。
それも、私がちょうど何も予定がなく、珍しくつきっきりで側にいてあげられた一日を終えて、その日の深夜に旅立ちました。
まるでそのタイミングを選んだかのようで、最期のときまで一緒にいて看取ってあげられたのが、私にとって、今も少しの慰めになっています。
ペット・ロス
“ ペット・ロス ”という言葉をよく耳にしますが、なるほど、本当にそうだと痛感している日々です。
ただ、以前なにかの本で読んだんですが、人間がこの世を去って天国の入り口へ近づくとき、まっさきに駆け寄ってきてくれるのが、先に天国に来ている飼い犬や飼い猫などのペットたちだというお話がありました。
もちろん、それを証明することなんてできないんですが。
でも、結局、ほとんど何の真実も知らないままに一生を終えていく私たち人間だからこそ、何を信じるかは当人の自由だと思っています。
だから、私はその話を信じています。
そしてまた、こうして「死」というものが、私の近くにやってくるときに、必ず思い出されて、勇気をもらっている言葉があります。
それは、『アッバード、ベルリン・フィルの挑戦』という本のなかで、イタリアの名指揮者クラウディオ・アッバードがインタビューに答えて話していたもの。
“ 愛だけが、死の絶対性を否定できるのです ”という言葉。
『アッバード、ベルリン・フィルの挑戦』ブラマーニ著/音楽之友社 Amazon
私たちは“ 生と死 ”を対義語としてよくとらえますが、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」にからめて、死の対義語を“ 愛 ”としています。
アッバードの思想が反映された素晴らしい言葉で、私がずっと大切にしている言葉のひとつです。
エルガー最後の作品
『威風堂々』で名高いエルガーは私がとくに好きな作曲家のひとりですが、彼がその人生の最後に完成した作品はあまり知られていません。
それは小編成オーケストラのための小品で“ Mina ”『ミーナ(マイナ)』という音楽です。
ミーナというのは、エルガーが飼っていた愛犬の名前。
そう、実はこのイギリス史上最高の作曲家が完成させた最後の作品というのは、この愛犬を音楽にした曲です。
いかにもこの大作曲家らしい、ノスタルジックな響きに満たされた音楽で、とっても短い作品ながら、心の奥に響いてくるものがあります。
もともと好きな曲でしたが、こうした経験を経て、いっそう心の奥にまで響いてくるようになりました。
はかなくて、優しい音楽。
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私は楽観主義者なので
日に日に弱っていったコロの姿がかわいそうで、ついついそうした姿ばかりが頭をよぎるんですが、でも、今ごろはきっと弱ってしまった肉体から解放されて、天国で思う存分走りまわっているはずだと信じて、そうした姿を思い浮かべるように努力しています。
これは瀬戸内寂聴さんも似たようなことをなにかの本でお話しされていたと思いますが、大切な誰かがこの世を去ったときに、それでもやっぱりその人がいなくなったという感覚はしないもので、それこそが天国の存在を予感させるものでもあるということ。
そう、確かに、いなくなってしまった感じが、今は不思議としません。
だから、その感覚に正直に、いなくなってしまったのではなく、会えなくなっているだけなんだと思うようにしています。
私は楽観主義なので、コロにも天国で再会できると信じています。
だから実際、旅立とうとしているコロに、すでに他界した私の父親の名前を教えて、「僕がそっちへ行くまでは、その人のところへ行って飼ってもらいなさい。かならず大事にしてくれるから」と伝えてあります。
この話をしたら、友人に「君は変わってるね」と笑われましたが、いいんです、それが私の信条なんです。
日常
今回、短期間でしたが、初めて老犬を介護してみてわかったのは、自分自身がある程度若くないと、犬は飼えないという現実です。
そうして、またそう遠くない未来に、次の犬とも出会っておきたいと思えるようになってきています。
我が家のコロは体重が14キロくらいの、そこまで大きくはない犬でしたが、それでもオムツを換えたり、寝たきりになったときに抱きかかえて姿勢を変えてあげるのに、ずいぶん力が要りました。
出会えるうちに出会っておかなければいけないんだと、教えられました。
きっとコロが次の出会いを導いてくれるでしょう。
14年間、当たり前のようにそばにいてくれた愛犬。
病気になって、そして、会えなくなってからふりかえると、もっと色々なことをしてあげられたのにという後悔がやはりたくさんあります。
ついこの前まで当たり前だった「日常」が、あっという間に「思い出」にかわっていく現実。
今生きているこの瞬間に、できるかぎりの愛をそそがなければいけないんだと、教えられます。
少しずつ
実は、もうコロが亡くなって数週間が過ぎているのですが、未熟な楽観主義者の私には、まだ不意に泣きたくなる瞬間だってありますし、押しつぶされそうな気持ちになるときもあります。
でも、やっぱり、あの目。
初めはなかなか目をあわせてくれなかったコロが、点滴中に見せてくれたあのまなざしが、いつも背中を押して前向きにしてくれます。
私には、こうした別れがつらすぎるから、もう二度と犬は飼わないんだと話す友人が何人もいます。
うん、わかります。
でも、もし自分もそう考えて14年前にコロと出会っていなかったら、きっと、そっちのほうがずっとずっと辛いだろうと思います。
私はやっぱり出会えてよかったと、素直に感じています。
この寒い冬もやがて終わって、もう少しで、暖かな春がやってきます。
もしかしたら、わたしが落ち込みすぎないように、春の予感が感じられるこの時節に旅立ってくれたのかもしれません。
そう思わせてくれるような、とってもやさしい犬でした。
ほんとうは、このページの最後にコロの写真を載せるつもりで準備もしていたんですが、やっぱりコロは私だけのものにしておきたいので、やめておきます。
今は何から何までSNSでシェアする時代ですけれど、ほんとうに大切なものは、自分の心のなかで、ずっと守りつづけていてもいいんじゃないかなって思っています。
まとまりのないエッセーを、ここまで読んでくださってありがとうございます。