この曲に私が出会ったのは、中学1年生の音楽の授業のとき。
音楽の教科書では特に第3曲「山道を行く」が紹介されていましたが、実はそれだけではもったいない、これは“ 全曲 ”を聴いていただきたい名曲です。
強烈だった巨匠トスカニーニの演奏
私はクラシック音楽との出会いが決して早くはなかった方で、中学生になったころどうしても音楽がやりたくなって、周囲が柔道部を薦めていてくれたのをふりきり、思い切って吹奏楽部に入りました。
そしてすぐに、自分は楽譜がまったく読めないことに気がつきます。
部活で渡された楽譜を見て、「この#の記号は何ですか?」と先輩に質問して「それは半音上げるんだよ」と教えてもらい、「なるほど…。半音て何ですか?」と聞き返していたのをなつかしく思い出します。
先輩たちは「ん~、そう来るかぁ‥」と困りながらも、ピアノのところに私を連れていって、鍵盤を指さしながら「たとえば、この白いところ(ド)から黒いところ(ド#)に行く、その間隔を半音て言うんだよ」と教えてくれました。
やさしい素敵な先輩たちでした。
それはともかく、いつまでも楽譜が読めないのは困ると思って、同時にピアノも習い始めました。
その習い始めたピアノのレッスンが日曜日の朝にあって、それが終わって自転車で自宅へ帰ると、時間はちょうど朝の10時でした。
日曜日の朝10時、私は急いでFMラジオのスイッチを入れます。
その当時、日曜日の朝10時からはラジオで「トスカニーニ・ライブラリー」という連続放送が行われていて、イタリアの大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)の残した録音を年代順に解説付きで聴くという、すばらしい番組がありました。
案内役は諸石幸生(もろいし・さちお)さんという音楽評論家で、丁寧な口調によるわかりやすい解説が心地よくて、クラシック初心者だった中学生の私は、毎日曜日、この番組をとても楽しみにしていました。
諸石幸生さんはその後、コンサート会場で一度だけお見かけしたことがあって、そのときの思い出は別のエッセイに綴っています。
それにしても、クラシック音楽を聴きはじめたとほぼ同時に、毎週トスカニーニの演奏で次から次へと色々な音楽と出会えていたと考えると、なんて幸運な巡り合わせだったんだろうと思います。
トスカニーニは、私たちが録音で触れることができるいちばん古い世代の音楽家のひとりで、あのオペラの大作曲家ヴェルディやプッチーニ、それからローマ三部作で著名なレスピーギなどと直接の親交があった大指揮者です。
そんな彼が、非常に珍しくアメリカの管弦楽曲をとりあげた時期があって、そのなかにグローフェの組曲『グランド・キャニオン』もありました。
ラジオから流れて来た演奏はとっても鮮烈で、トスカニーニ特有の硬質な響きとストレートな表現が相まって、とても劇的な描写音楽が耳に飛び込んできました。
ファーディ・グローフェ
組曲『グランドキャニオン』を作曲したファーディ・グローフェ(1892~1972)は、何といっても、あのガーシュウィン作曲『ラプソディー・イン・ブルー』のオーケストラ版を作ったことで有名な音楽家です。
そのほか、バンド・スコアなどに書かれる「コードネーム」をつくった人物のひとりとも伝えられています。
彼はニューヨークのドイツ系移民の生まれで、一族はクラシックの音楽家が多い家系でした。
そうした家系のおかげで実にいろいろな楽器を身に着けたようですが、若いころは経済的にとても苦労していて、牛乳配達からトラック運転手、新聞の売り子までさまざまな職業を渡り歩いています。
やがてダンス音楽のバンドに参加するようになって、1920年からは、ついにポール・ホワイトマンの楽団のピアニスト、そして、アレンジャーとして仕事をするようになります。
例の『ラプソディー・イン・ブルー』のアレンジは、1924年のこと。
それから2年後の1926年には、今度は「作曲家」として、現在も演奏される『ミシシッピ組曲』を生み出しています。
この組曲の終曲「マルディグラ」はテレビ番組のBGMによく使われるので、おそらく彼が生み出したメロディーのなかで最も広く知られているものです。
グローフェはポール・ホワイトマン楽団での仕事がはじまった1920年のころ、アリゾナ州にあるグランドキャニオンをテーマにした音楽を作曲しようと思い立ちます。
そうして実際に創作が始められましたが、これがなかなか完成まで漕ぎつけず、なんと10年ほどの歳月がかかって、ようやく1931年に、組曲『グランドキャニオン』は完成されます。
「生みの苦しみ」を味わったこの組曲は、その年の11月22日にシカゴでポール・ホワイトマンの楽団によって初演されて、グローフェの最高傑作として現在も愛され続けています。
ポール・ホワイトマンって?
『ラプソディー・イン・ブルー』やこのグローフェの作品の話になると、必ず登場するのが“ ポール・ホワイトマン ”というミュージシャンの名前です。
ポール・ホワイトマンは1890年コロラド州デンバーの生まれで、1967年(77歳)まで存命でした。
“ King of Jazz ”「ジャズの王さま」と呼ばれたミュージシャンですが、お母さんはオペラ歌手、本人も若いころはサンフランシスコ交響楽団のヴィオラ奏者を務めるなど、もともとはクラシック畑でキャリアを積んでいた人です。
それが、第一次大戦後、自身でダンス・バンドを立ち上げたところ、人気に火が付き、ポピュラー・ミュージックの世界で活躍することになります。
その人気は、時代がスイング・ジャズへ移行するまで続いたとのことです。
彼のバンドはジャズのビッグバンドにヴァイオリンなどの弦楽器が加わったような編成で、ほかのジャズ・バンドとは人数も一回り以上大きい、迫力のあるものでした。
「ジャズ」というと、私たちは即興的なアプローチの音楽を連想しますが、彼のジャズは楽譜にしっかりと書き留められたものを演奏するスタイルで、その点で彼の音楽をジャズとすることに疑問を呈する人も少なくないようですが、いっぽうで、あのジャズの巨匠デューク・エリントンはポール・ホワイトマンこそ紛れもない“ ジャズの王様 ”だとして称賛しています。
ポール・ホワイトマンによる演奏
さすがアメリカというか、録音技術が早期に発展したこともあってか、作曲者グローフェ自身による録音もありますが、それよりもっと古い、ポール・ホワイトマン指揮によるグローフェ:『グランドキャニオン』の録音というものが存在しています。
1932年の録音で、これが聴いてみると実に多くを教えられる素晴らしい音楽遺産です。
現在わたしたちが耳にする、完全にフル・オーケストラ用に編曲されたものではなく、ポール・ホワイトマンによる録音は初演時のいちばん最初の編成のもの。
とにかくまず第一に感じることは、その“ 革新性 ”です。
ジャズ・オーケストラでクラシック音楽に切り込んでいる響きは、非常に“ 斬新 ”です。
さまざまなところで、現在では聴けないような、甘いサキソフォンやトランペットのヴィブラートが聴こえてきたり、何気なく響くヴィブラフォンの幻想的な音も、まったく未知の音楽を聴いているような“ 新しさ ”に満ちています。
ポール・ホワイトマンというミュージシャンが、実に野心的で、それこそロシア・バレエ団のディアギレフに通じるような“ 革新的 ”な精神を持った音楽家だったことを教えられる録音です。
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※AppleMusic以外のリンク先アルバムではトラック13~17に収録されているものの、曲順がめちゃくちゃです。ご注意ください。)
🔰初めての『グランドキャニオン』
第1曲「日の出」
第2曲「赤い砂漠」
第3曲「山道を行く」
第4曲「夕暮れ」
第5曲「豪雨」
以上の5曲から出来ている組曲で、演奏時間は35分ほどです。
それぞれが完全に独立しているわけではなくて、共通で使用されている「循環主題」もあって、そうすることで組曲としての統一感を出すことに成功しています。
いちばん有名なのは第3曲「山道を行く」。
コミカルな馬のひづめの音、カウボーイ風の旋律、後半にはチェレスタのカデンツァがあったりと、聴きどころが満載です。
ロマンティックな音楽を聴きたいときは、第4曲「夕暮れ」を。
そして、フィナーレの第5曲「豪雨」では、壮大なアメリカ映画の幕切れを観ているかのような、音によるドラマが聴かれます。
実際、あのディズニーが映画『眠れる森の美女』を1959年に公開したときには、この組曲『グランドキャニオン』に映像をつけたものが同時上映されました。
私のお気に入り
《アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団》
わたしが中学生当時から夢中になり、今もよく聴きたくなる録音です。
19世紀イタリア生まれのアルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)にとって、こうしたジャズの響きがいっぱいの作品は簡単になじめるものではなかったはずですが、甘すぎず辛すぎず、とても立派で美しい、胸にせまる音楽が展開されています。
組曲『グランドキャニオン』は1943年と1945年の2回取り上げられていて、ここに聴けるのは1945年にニューヨークにあるカーネギーホールで録音が行われたもので、作曲者グローフェも客席で聴いていたそうです。
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《ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団》
これはトスカニーニの録音とならんで私が大好きな演奏。
オーマンディは20世紀後半、フィラデルフィア管弦楽団とのコンビでたいへんな人気を誇ったハンガリー出身の指揮者。
こうしたアメリカ的な作品におけるこのコンビの演奏は、とても説得力の強いもので、テンポといいダイナミクスといい、のびのびと自然に名演奏が展開されています。
さっき調べて驚いたんですが、現在、この有名な演奏はCDも廃盤、オンライン配信もまともにされていないようです。
何とか見つけ出したAmazonMusicのものをリンクしておきますが、その価値が一日も早く再評価されるように願っています。
( Amazon Music↑ などで聴けます)
《モートン・グールドと彼のオーケストラ》
モートン・グールド(1913-1996)はアメリカの音楽家で、ピアニスト、作曲家、アレンジャー、指揮者として、クラシックからポピュラー・ミュージックまで、クロスオーバーで活躍した人です。
アメリカの作曲家によるクラシック音楽のレコーディングでは、必ずといっていいほど彼の名前にぶつかります。
自身が作曲家ということもあってか、どんな作品を扱っても、しっかりと音楽の構成を活かした立派な演奏が多いです。
この『グランドキャニオン』も、良い意味で聴かせ上手な、素敵な録音。
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《フェリックス・スラットキン指揮ハリウッド・ボウル交響楽団》
現在も活躍中の指揮者レナード・スラットキンのお父さんであるフェリックス・スラットキン(1915-1963)指揮による録音。
ウクライナ系アメリカ人で、大ヴァイオリニストのジンバリストにヴァイオリンを、大指揮者フリッツ・ライナーに指揮を学んだという凄い経歴の人で、あとにハリウッド弦楽四重奏団というアメリカを代表するカルテットを組織しました。
さすが室内楽で活躍した方だけあって、この『グランドキャニオン』でも実に地に足の着いた音楽が聴かれます。
また、このアルバムには素敵な『ミシシッピ組曲』の録音も入っています。
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