シリーズ〈交響曲100〉、その第5回です。
前回の交響曲第29番に引き続き、モーツァルトの傑作をご紹介します。
モーツァルトの手紙
最初のアレグロのまん中に、これはきっと受けると思っていたパッサージュが一つあったのですが、はたして聴衆は一斉に熱狂してしまいました。そして拍手大喝采です。でもぼくは、書いている時から、それがどんな効果を生むかを知っていたので、それを最後にもう一度出しておきました。
『モーツァルトの手紙(上)』柴田治三郎編訳 岩波文庫
これは1778年7月3日に、パリにいるモーツァルトがザルツブルクにいる父親へ書いた手紙の後半にでてくる文章です。
ここで話題にされている音楽こそ、今回ご紹介する交響曲第31番ニ長調『パリ』です。
ただ、「パリ」というあだ名はモーツァルト自身がつけたものではありません。
これはモーツァルトが交響曲というジャンルに久しぶりに戻ってきた、実に3年半ぶりの新作交響曲でした。
モーツァルトはどうもパリがお気に召さなかったようで、同じ手紙のなかで「かれらには音楽は分からない」と書いています。
なので、フランス人が好むパッセージを入れて、彼らが「受ける」ようにねらって手玉にとってやったという感じ。
こう書くと何か意地の悪い感じに聞こえてしまいますが、音楽を聴いてみるとわかるように、もっと無邪気に、茶目っ気たっぷりにいたずらを仕掛けたような感じです。
その意味で、“ ハイドンの精神 ”といっても許してもらえるでしょうか。
同じ手紙のこと
さきほど引用した手紙はモーツァルトが書いた手紙のなかでも、とりわけ有名なもののひとつです。
手紙の後半はパリ交響曲の初演の様子などが書かれているのですが、前半には「お母さんの具合が非常に悪いのです」と、一緒にパリに出て来ていた母親の体調の悪化を知らせる内容が書かれています。
ですが、実はこの手紙を書く数時間前に、モーツァルトのお母さんはすでに亡くなっています。
つまり、モーツァルトは、故郷ザルツブルクにいる父親と姉が、すこしでも心の準備をできるようにと、いったん嘘の手紙を書いたということです。
「望みをもちましょう。でも望みが多すぎてはいけません。神を信頼しましょう。そして、万能の神のみ心にかなえば何ごともうまく行くものだと考えて、みずから心を慰めましょう」といったことを、手紙のなかでくり返し書いて、父親と姉に心の準備を暗にうながしています。
さらに同じ日に、ザルツブルクにいるブリンガー神父へも手紙を書いていて、父親に嘘の手紙を送ったことを告白したうえで、父親と姉には母親の死については決して話さずに、ただその心構えだけをさせてあげてほしいとお願いをしています。
モーツァルトがとっても優しい、非常に繊細な心を宿した天才であったことを教えてくれる、そして、読む人の心を打たずにおかない手紙です。
私のお気に入り
ヨゼフ・クリップス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏は、宝石のような輝き。
第1楽章では、モーツァルトの手紙にあった出来事が目に浮かぶかのような高揚感があります。
いっぽうで、心のなかにしっとりと流れ込んでくるような豊かな抒情性もあって、じつに奥行きのある演奏。
このコンビのモーツァルトは珠玉の名演奏の連続です。
それにしても、オンライン配信のほうが現行のCDより音が豊かというのはどういうことなんでしょう。
(AppleMusic↑・AmazonMusic・Spotify・Line Musicなどで聴くことができます)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団は、クレンペラーのいつものごとく木管楽器をくっきりと響かせるバランスが、とても透明な印象を強めています。
その点で、この演奏の頂点として捉えられているのは第2楽章ではないかと思います。
クレンペラーの描く第2楽章は神聖な透明感があって、聴いていて心が清らかになるよう。
以前に特集した、モニク・アースのピアノでモーツァルトのイ短調のピアノ・ソナタの第2楽章を聴いたときのような、悲しみのあとの静けさが感じられる演奏。
(AmazonMusic↑・AmazonMusic・Spotify・LineMusic)
フランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラは、古楽器による録音。
いつものことながら腰の据わった音楽が聴けます。
ブリュッヘンの指揮で聴くと「いま展開部に入った」「いま再現部に入った」と構成がはっきりと伝わってきます。
これはシンフォニーの指揮において、本当に大切なことです。
それだけにいっそう、細部での陰影のこまやかな表現が説得力をもって響いてきます。
すべての楽章の均整がとられた、充実の演奏。
(AppleMusic↑・AmazonMusic・Spotify・LineMusic)
サー・コリン・デイヴィス指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団は、躍動感あふれる、じつに堂々たる演奏。
オーケストラの響きの美しさが最大限にひきだされていて、このコンビの美点が凝縮されたような録音。
(AppleMusic↑・AmazonMusic・Spotify・LineMusic)