2022年5月15日(日)14:00~、ミューザ川崎でジョナサン・ノットの指揮する東京交響楽団のコンサートを聴いてきました。
1.ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
2.デュサパン:オルガンとオーケストラの為の二重奏曲「WAVES」(日本初演)
3.ブラームス:交響曲第3番ヘ長調
(アンコール)マーラー:花の章
以前、このコンビによる素晴らしいシューベルトの交響曲第6番の演奏を体験して以来、ブルックナーやマーラーといった巨大なロマン派の作品よりも、より古典的な色合いの作品のほうが楽しみになっています。
なので、今回のプログラムでも注目していたのはブラームス。
ところが、これが予想に反して、かなり変わったブラームスでした。
独特なブラームス
どう変わっていたかというと、まずいちばんに目立つのがフレージング。
かなりもったりとしていて、随所でひきずるようなテヌートがかけられていました。
ただ、これはジョナサン・ノットの特徴のひとつでもあって、彼は現代音楽のスペシャリストには珍しく、情緒過多というか、かなり粘りの強いフレージングをつくる人です。
そうしたカンタービレへの強いこだわりは、彼がボーイソプラノとして「声楽」で活躍していた点も影響しているのかもしれません。
以前聴いたラフマニノフの交響曲第2番では、それこそ冒頭からおしまいまで、ずっと粘り気のつよいフレージングが続いて、会場で聴いていて、やや胃もたれするように感じたほどでした。
この人は、意外なくらいエモーショナルな音楽を作るタイプなんだと驚いたものです。
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※2022年5月現在、AppleMusicとLineMusicでは一部の楽章しか聴けない仕様ですが、AmazonMusicとSpotifyでは全楽章が聴けます。ただ、AmazonMusicとSpotifyはトラックに全く別の演奏者名と曲名が表示されます。クラシックの扱われ方はまだまだ雑です…
ブラームスの響き
このブラームスでも、そうした粘るようなフレージングが目立ちました。
でも、それ以上に特徴的だったのは“ 響き ”でした。
これは、前半のプログラムのドビュッシーでもそうで、ドビュッシーが始まって間もなく、「おやっ」と思いました。
いつもながらテクスチュアは明晰で、アンサンブルが透明なものの、響きがいつもよりうすく感じられて、どこか響きが乾いているようにすら感じられたからです。
そうして舞台をよく見てみると、実際、弦楽器の人数もかなりしぼられていました。
そして、その方向性が後半のブラームスにも適用されていました。
コントラバス6本、ファースト・ヴァイオリンが12本という控えめな編成、そして、それだけではなく、弦楽器群のボウイングもかなり抑制させられていて、ある意味では密度を濃くしている、別の言い方をすれば、かなり窮屈にも感じられる音楽が志向されていました。
この“ 乾いた ”響きを聴いていると、ふと、数年前にサントリーホールで聴いたサイモン・ラトル指揮するロンドン交響楽団の音を思い出しました。
あのときは、冒頭にラヴェルの『マ・メール・ロワ』が演奏されたのですが、一般にラヴェルの音楽としてイメージされる音とはちがった、とっても乾いた音が鳴らされていたのを覚えています。
こうした乾いた音への傾倒というのは、つまりは、これが現在における、ヨーロッパのトレンドなのかもしれません。
元をたどれば、きっと古楽奏法への傾倒があるのだとは思いますが。
こうしたブラームスでもうひとつ思い出したのが、当時まだまだ新進気鋭だったイギリスの指揮者ダニエル・ハーディングがドイツ・カンマーフィル・ブレーメンと録音したものです。
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このハーディングの演奏、その冒頭の和音の処理の仕方といい、全体的にノットとかなり似ていて、久々に聞き返してみて少し驚くほどでした。
ノット、ラトル、ハーディング、みなイギリス人というのも面白いところです。
ハーディング、最近名前を見ないと思っていたら、指揮活動を一時停止して、航空機のパイロットに転職しているんだそうです。
驚きました。
スイス・ロマンド管弦楽団とのブラームス
ジョナサン・ノットには数年前にスイス・ロマンドと行った演奏の映像がYouTubeで公式に配信されていて、ただ、そちらは今回の実演と比べると、よほど芳醇でふくよかなスタイルになっています。
今回の東京交響楽団との演奏は、もっと色々なものがそぎ落とされた、乾いた響きのブラームス。
こうしたブラームスがあってもいいのはもちろんですが、ただ、会場で聴いていて、ずっと違和感があったのも事実です。
ブラームスという人は恰幅のよい体をしていましたが、「みなさん、わたしのお腹のような音を出してください」とオーケストラのリハーサルで語ったというエピソードが残っていたり、あるいは、シューベルトの交響曲が出版されるにあたって、より響きが充実するようにチェロなどの中低音を補筆したりと、芳醇な和声を志向した人という印象がつよい作曲家です。
きっと、そうした元来のブラームスの音のイメージとノットの方向性とのあいだの「乖離」が、演奏中ずっと気になってしまったのだと感じています。
これで会場がミューザ川崎ではなく、音が響きすぎてしまう東京オペラシティなどのホールなら違和感がもっと少なかったのかもしれません。
というか、確か前日には、東京オペラ・シティでの公演があったはずなので、そちらで聴いたほうが、よりノットと東京交響楽団のドビュッシー&ブラームスが楽しめたでしょう。
私には、今回のアプローチは違和感のほうが強くて、むしろ以前のスイス・ロマンドとの動画のほうに、より魅力を感じてしまいます。
見事な終楽章
ただ、そうした違和感があったにせよ、さすがと感じさせられたのが終楽章です。
この楽章は、ブラームスの数ある傑作のなかでも、とりわけ展開の充実した音楽が聴かれる楽章ですが、この展開部で、ノットと東京交響楽団は非常に情熱あふれる、たたみかけるような見事なクライマックスを形作りました。
こうして楽曲のクライマックスをしっかりと形成できること。
それが、交響曲の演奏ではまず何よりも特筆されるところで、どんなに違和感があったとしても、それを凌駕するような瞬間があるからこそ、私もこのブログで安心して彼らのコンサートをお薦めできるわけです。
フィナーレの途中、ホルンがメインで主題を奏でるあたりで、急にエルガーの序曲『コケイン』のような響きがあらわれて、こうしたところはやはりイギリス人の音楽的特徴が自然に出てくるものなのだと、ちょっと面白い瞬間でした。
アンコール
そして、このコンサートでは、珍しくアンコールが演奏されました。
それも、ブラームスのハンガリー舞曲などではなく、マーラーが交響曲第1番《巨人》に当初組み込んでいた『花の章』が演奏されて驚きました。
ただ、やはり弦楽器がこれだけ絞り込まれた人数で聴くと、どこかショスタコーヴィチやイベールなどが書いた劇場音楽、映画館などで生演奏されていた小編成のオーケストラ作品の響きに聴こえてきて、マーラーですら、編成次第で何か別の音楽のように聴こえてくる瞬間が多発するというのは発見でした。
このマーラーも、もっと大きな編成、もしくはもっと小さなホールで聴きたかったというのが素直な感想です。
Take a risk.
“ Take a risk! ”(リスクをとれ!)が合言葉というジョナサン・ノットのことなので、いろいろとやってみたいことを試行錯誤しているという面もきっとあるんでしょう。
いろいろやってみたいということでは、真ん中のデュサパン作品の日本初演ですが、パイプオルガンまで投入されての巨大な音響の作品でした。
こうした複雑な現代音楽は、このコンビがまさに得意とするところで、彼らの非常に優れたアンサンブルが十二分に披露されていました。
この曲の随所でいろいろな打楽器がさく裂したり、パイプオルガンが鳴り響いたりしたのですが、そうして大きな音が響くたびに、会場にいた数人の子どもたちが険しい顔で耳をふさいでいて、それはとても微笑ましいものでした。
演奏後には意外なほどカーテンコールが繰り返されましたが、私はあの子どもたちの素直な反応の方に、より強い共感を覚えました。