手塚治虫さんの作品に『雨のコンダクター』(公式サイト)という漫画があります。
舞台は、ベトナム戦争で世論が二分していた1973年当時のアメリカ。
戦争で一定の功績をおさめようとするニクソン大統領の就任祝賀会では、派手にチャイコフスキーの序曲『1812年』が演奏されようとしている同じ晩に、戦争に反対だった指揮者レナード・バーンスタインが教会でハイドンのミサ曲を演奏したときのエピソードが描かれています。
そこで描かれている日は、あいにくの雨。
それにもかかわらず、バーンスタイン指揮する平和の祈りを聴くために、およそ1万人のアメリカ人が教会に押し寄せます。
教会の外まであふれかえってしまった人々にも聴こえるよう急遽スピーカーが設置され、人々は一心にハイドンのミサ曲に耳を傾けました。
このときバーンスタインが指揮していた音楽が、ハイドン作曲の『戦時のミサ ハ長調』でした。
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時代錯誤な戦争
北京オリンピックが2/20に閉会式をむかえて、その世界中の選手たちの笑顔、抱き合う姿をテレビで観ながら、いっぽうでは不安を感じていました。
平和の祭典に一区切りがつくここからの数日間が、ウクライナ情勢にとって、ひとつの恐ろしい期間だと漠然と感じていました。
それでもまさか、本や映像、学校の授業で学んで、そして、私の父が幼い子どもの頃の実体験として話してくれた「国単位での戦争」というものが、この21世紀の時代に、現実に始まってしまうとまでは思っていませんでした。
遠く離れたウクライナの情勢を日々、メディアで観ながら、おおきな不安と悲しみを感じています。
相手は超大国のロシアであって、一歩間違えれば世界大戦、そして核戦争になりかねないがために、世界が直接手を出すに出せないという悲劇的な構図は、ひたすらに胸が痛くなります。
政治と芸術、ムーティの言葉
政治と芸術は別物という意見もありますが、私はかつてユダヤ系ハンガリー人の指揮者ゲオルグ・ショルティが日本のインタビューに答えて話した、「政治に無関心な芸術家は、社会に何ら貢献しません」という、怒りにも似た、強い言葉を忘れることができません。
彼はユダヤ系ということで、大変な苦労をして指揮者になった人でした。
ショルティは戦後、指揮者として輝かしい成功をおさめたあとも、毎朝、かならず4種類前後の新聞に目を通しては、社会情勢を注視するのが日課と語っていました。
学ぶところの多い姿勢だと思います。
また、あまり一般のニュースでは話題になりませんでしたが、現代を代表するイタリアの名指揮者リッカルド・ムーティ氏は、先日(2022年2月24日)のシカゴ交響楽団との公演でベートーヴェンの第九を演奏する前に、マイクをもってステージに現れ、メッセージを訴えました。
“A message should arrive to all the people that not only in Ukraine but in the world are creating violence, hate and strange need for war, we are all against all that.”
(ウクライナを含めた世界のあらゆる場所で、暴力・憎しみ・戦争へのいびつな欲求を生み出しているすべての人たちにメッセージを送ります。私たちはみな、その全てを拒絶します。)
音楽というのは、ベートーヴェンが『ミサ・ソレムニス』のスコアに書き込んだように、「ある人の心から生まれて、ほかの誰かの心へ帰っていく」もの。
芸術と社会を切り離して、「人間」に無関心でいるのは、少なくとも、クラシック音楽の精神にはそぐわないものだと思っています。
今、響くべき音楽
こうしたときに、自然に思い出されたのが、あのバーンスタインによるハイドン:『戦時のミサ』の演奏のことでした。
私は学生のころに手塚治虫さんの漫画『雨のコンダクター』を読んで、そのとき初めてこの曲を聴きましたが、そのときは思ったよりも音楽が明朗な響きであふれているので、ちょっと戸惑いました。
漫画のタッチから、もっと激しい、悲劇的なミサ曲を想像していたからです。
でも、今回、ロシアのウクライナ侵攻が同じ地球上で始まってしまって、遠く離れていても、メディアを通して伝わってくる悲劇的光景に悲しみと不安を感じているなかで、どうにもならない自分の心を落ち着かせるために、あらためてハイドンの『戦時のミサ』を聴きなおしてみると、なるほど、いかにハイドンの描いた音楽が正しいかがわかりました。
きれいごとではない明るさ。
ここには、悲観的な精神に寄りそう慰めと共感、そして、そこから立ち上がるための力強さ、しのびよる不安を払いのけるに必要なだけの光があります。
まぎれもない、まさに戦時の祈りが結晶となった音楽です。
交響曲のあとのハイドン
イギリスで一連の12曲におよぶ交響曲を発表して大成功をおさめえたハイドンは、けれども、祖国オーストリアに戻ったあと、交響曲の作曲をいっさい行いませんでした。
でも、それは創作力が減退したからではありませんでした。
彼が交響曲の筆を折ったのは、イギリスで一般の市民が演奏会場に行って、ヘンデルのオラトリオなどの合唱とオーケストラによる壮麗な作品を楽しんでいる光景に触れたとき、より広い公衆に訴えかけるオラトリオ、そしてミサ曲というジャンルに、新しく進むべき方向を見つけたからです。
この『戦時のミサ』も、声楽をとり除くと、オーケストラの編成は交響曲と同じような編成になっています。
つまりは、交響曲の大家として自在な表現を手に入れたハイドンが、そこに合唱を導入することでより作品の規模を拡大して、さらには、そこに教会音楽の救済の精神、バロック音楽の手法をも織り込むことで、自身のもつ多様な芸術を、ひとつの世界に統合させるという新たな段階に移ったことになります。
戦時のミサ
1789年にフランス革命が起きて、そこから登場したナポレオンという英雄が繰り広げた数々の戦争。
ハイドンが住んでいたオーストリアもフランス軍の脅威に飲まれ、その混乱と悲劇の最中にありました。
そうして、1796年、ハイドンが64歳のころに書き上げたのがこのミサ曲です。
ミサ曲というのは、教会の典礼文で歌詞が固定されているので、この『戦時のミサ』のなかで特に戦争に関連した歌詞が歌われているわけではありません。
けれど、上で述べたような時代背景、そして、作曲者本人がわざわざ“ Missa in Tempore belli ”(戦争のときのミサ)と楽譜に書き込んでいることから、このミサ曲は特にハイドンが平和を希求して作曲したものと推定されています。
第6曲『アニュス・デイ』
このミサ曲はぜんぶで6曲で構成されているミサ曲で、始めからすべて聴いても演奏時間はだいたい40分程度です。
それを冒頭からじっと聴き進んで、終曲の第6曲『アニュス・デイ(神の子羊)』に入ったとき、この瞬間こそがこの音楽の到達点なんだとわかります。
冒頭は、壮大な大音響が鳴り響くわけではありません。
それどころか、このミサ曲で最も静かで、最もやわらかな音楽があらわれます。
地上の悲しみと、天上からの慰めが聴こえる瞬間。
第6曲『アニュス・デイ』はすべて聴いても5分ほどの音楽ですが、その冒頭の響きを聴くだけも、この音楽がいかに深い慰めに満ちた、神聖な音楽であるかがはっきりとわかります。
そして、ティンパニがかなり目立つ役割を与えられていて、このティンパニが、まるで戦争の足音を象徴しているように響くときもあれば、反対にまた、力強い光の根源でもあるように輝かしく鳴り響くときもあります。
このミサ曲が『太鼓のミサ』というニックネームも持っているのは、そういうわけでしょう。
歌われている典礼文は「世の罪を取り除いてくださる神の子羊、わたしたちを憐れんでください。私たちに平和を与えてください。」というもの。
ラテン語の、ドナ(与えてください)・ノービス(私たちに)・パーチェム(平和を)、「私たちに平和を与えてください」という言葉が、後半、熱を帯びた合唱によって何度も何度も繰り返されます。
バーンスタインの演奏
私はこれを、例のバーンスタインの演奏を聴いて書いています。
レナード・バーンスタイン(1918-1990)はアメリカを代表する指揮者・作曲家・ピアニスト‥、多才な活動を行った音楽家でした。
あのミュージカル『ウエストサイド・ストーリー』も彼の作曲によるものです。
手塚治虫さんの漫画のもとになったエピソード当日のライブ録音というのはどうも存在しないようですが、実は、その翌日にセッション録音されたものが“ Concert for Peace ”として正式に残されています。
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(上の画像はAmazon商品ページにリンクしてあります)
この録音は、オンライン配信でも聴くことができます。
( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)
セッション録音とはいえ、前日のライブを容易に想像できるほど、演奏にはある種の熱が感じられます。
バーンスタインの呼びかけに応じた有志の演奏家たちが集まって演奏したそうで、管弦楽団の名前はただ「オーケストラ」となっています。
この演奏では、ありとあらゆる音符が、祈り、嘆き、光を放っています。
聴いている人間の胸に強く刺さる、バーンスタインと音楽家たちによる平和への希求。
天才指揮者バーンスタインといえど、そういつもは達成できないような稀有な音楽が記録されています。
指揮台の上で自分の内面をすべてさらけ出す、情熱あふれる指揮者バーンスタインの面目躍如たる音楽が聴かれます。
まず何より平和を
世界は、この数日で一変してしまいました。
平和というものが、こうも危ういバランスの上で成り立っていたものなのかと思い知らされています。
日本では、水を得た魚のように「核兵器の共有」という話まで浮上していますが、こうしてすぐに軍備拡張を訴える政治家が増えるのも、繰り返されてきた歴史の典型であって、戦争を始めた人物もふくめて、政治家というのはこうも進歩しないものでしょうか。
そして、いつだって真っ先に傷つき、死んでいくのは、絶対に政治家ではなく、命令を受けた兵士、そこに暮らしていただけの一般市民、そして、ただただ巻き込まれる子どもたちです。
旧ソビエト出身、ロシアの巨匠エフゲニー・スヴェトラーノフがあるインタビューで話していた言葉を思い出します。
彼は言っていました、いろいろな国でいろいろな人々に出会えたのが指揮者という仕事の素晴らしい点のひとつだけれど、どの国に行っても失望させられるのは政治家だと。
この悲劇は、いったいどこに出口を見つけるのでしょうか。
そう、現代の私たちにも、平和を訴えてハイドンを演奏するような音楽家がやはり必要です。
シカゴでベートーヴェンを指揮したリッカルド・ムーティなどの音楽家たちの仕事は、とても尊いものです。
名指揮者のホルスト・シュタインがかつて言っていました、「私は歌いながら戦う兵士を見たことがない。音楽というものは平和を求めるものだ」。
まさに、その通りです。
音楽家には、音楽家である以上、平和を求める姿勢が求められます。
あの9・11同時多発テロのときには、イギリスの名物音楽祭プロムスは例年お祭り騒ぎになるラストナイト・コンサートのプログラミングをすぐに変更して、ティペットの『われらが時代の子』やベートーヴェンの第九の第4楽章を演奏して、平和を訴えるメッセージを世界に送りました。
そして、それは何も戦争に限りません。
日本で東日本大震災が発生したときには、ウィーン・フィルがバレンボイムとモーツァルトのピアノ協奏曲を、ルツェルン祝祭管弦楽団とアッバードがマーラーの交響曲第10番のアダージョを遠く離れた日本のために演奏していました。
原発事故関連で来日をキャンセルする音楽家がほとんどだったなか、イギリスの名歌手フェリシティ・ロットは予定通り来日してシュトラウスの『明日』を日本のために歌い、インド出身の名指揮者ズービン・メータは『第九』を日本で指揮してくれました。
困難にある人間に寄りそう姿勢こそが、数々の音楽家たちが私たちに示してくれた規範となるべき姿です。
そうして気になっていることは、今のところ、日本のほとんどのオーケストラがこのウクライナ情勢について沈黙を守っていることです。
ツイッターやインスタグラムを活用しているようなオーケストラでも、まるで何事もないかのように、通常の発信ばかりを行っています。
世界中のオーケストラが平和を訴える姿勢を打ち出しているなかで、どうして日本のオーケストラはまるで無関心であるかのように、沈黙を守っているんでしょう。
そんな静かな日本の音楽界のなかで、長年、ウクライナのバレエの団体を招聘している光藍社がYouTubeで『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』のバレエ全幕を公開して、ウクライナへの支援を訴えている姿勢は称賛されるべきです。
踊っているのはウクライナのバレエ団、そして音楽はロシアのチャイコフスキー。
本来、このふたつの国は、兄弟国なわけです。
命令に逆らえず、泣きながらウクライナへ砲弾を打っているロシア兵もいるという報道も耳にします。
戦争は、何もかもが悲劇です。
戦争を経験していないのに
こうした文章を書いていて頭をよぎることは、平和な日本に暮らして、戦争をまったく知らない、体験していない自分に、平和や反戦について書く資格があるのかということです。
これについては、以前NHKのあるインタビューで戦争体験を語り継いでいる女性の方がおっしゃっていた言葉がわたしの拠り所になっています。
その方は、若い世代が「戦争を体験していないのに」平和について発言や行動をするのをためらう必要はないとおっしゃっていました。
なぜなら、「戦争というものは、体験してはいけないものだから」と。
「体験に勝るものはないし、経験者の言葉ほど重いものはないけれど、でも、戦争だけは体験してはいけない。体験していないけれど、それでも戦争はダメなんだとみんなが言い続けることが大切なんです」とお話しされていました。
その方の言葉に励まされて、こうしてエッセイを書いています。
そして、このエッセイにかぎらず、これからは意識して平和を希求する音楽の紹介も継続していきます。
日常的に訴えていかなければいけないことなのだと、いま痛感しています。
『戦時のミサ』の録音
バーンスタインはこの曲をずっと大切にしたようで、後年、ドイツのバイエルン放送交響楽団とも素晴らしい録音を残していて、これは映像も残っています。
こちらはあの若きアメリカでの演奏から時間を経て、年輪を重ねたバーンスタインの、より深くしずむような音楽が聴かれます。
平和への祈りの姿勢は同じですが、アメリカでの演奏が若々しい力強さに満ちたものとすれば、バイエルン放送交響楽団との演奏は深く、静かな祈りに満ちたものです。
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バーンスタイン以外のものでは、ジョージ・ゲスト指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ、セント・ジョーンズ・カレッジ合唱団らによる演奏が、この曲の素朴な教会音楽的側面を自然にうち出していて素晴らしい録音です。
( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)
ハイドンの願いは、200年の時を超えて、今も世界の祈りです。