シリーズ〈交響曲100〉の第3回。
今回ははじめて、ハイドンを離れて、ついに、あの天才モーツァルトの登場です。
目次(押すとジャンプします)
ハイドンの偉大なる影響力
ハイドンが彼の“疾風怒濤期”を代表する『告別』交響曲を書いた翌年の1773年、まだおよそ18歳だったモーツァルトが、やはり短調の交響曲を書きました。
“ モーツァルトの短調 ”という言葉があるくらい、この天才は基本的に“ 長調 ”で曲を書きます。
モーツァルトがその生涯に作曲した、番号がついている全41曲の交響曲のなかで、短調で書いたのはこの第25番と晩年の第40番のたった2曲だけしかありません。
しかも、どちらも“ト短調”。
このことに直接ないし間接的に影響を与えたのは、先輩作曲家ハイドンだと推測されています。
彼が1760年代終わりに書いた「交響曲第39番 ト短調」が強い影響力を持ったのではないかと。
これは『告別』交響曲とおなじく、ハイドンの“疾風怒濤期”の傑作のひとつ。
その劇的な性格を持つト短調の交響曲第39番は、当時の同業者たちにたいへん強いインスピレーションを与えたようで、モーツァルト以外にも様々な作曲家が、この時期に一斉に「ト短調の交響曲」を書かずにいられませんでした。
ハイドンとモーツァルト
モーツァルトにとって、ハイドンは24歳年上の先輩作曲家。
のちに二人は出会って、直接の親しい間柄になります。
後輩モーツァルトがハイドンの影響をうけるのは当然の話ですが、この二人がおもしろいのは、先輩ハイドンも後輩モーツァルトから影響を受けている節があることです。
ハイドンという人は人間的にたいへん包容力のある人だったようで、後輩モーツァルトの天才を手放しで褒めたたえ、称賛し、しかも、そこから学ぼうとする謙虚さまでもっていたようです。
77歳まで生きたハイドンに比べ、モーツァルトは35年の生涯。
ふたりの世代を超えた友情はモーツァルトの早すぎる死によって、ほんの10年ほどで終わってしまいます。
ただ、ここでご紹介する交響曲第25番を書いたころは、まだ、モーツァルトはハイドンと直接の交流はありません。
「モーツァルトにとっての疾風怒濤期」といわれるこの交響曲第25番と、ハイドンの疾風怒濤期の交響曲群をならべて聴いてみると、なるほど、ハイドンの影響力の大きさを感じるとともに、ふたりの音楽の違いも感じられます。
ハイドンよりも、モーツァルトのほうが私には生々しく聴こえます。
ハイドンの交響曲が“劇”的であるなら、モーツァルトのは生身の人間の痛みを感じさせるように聴こえます。
18歳でここまでたどり着いてしまっているというのは、本人にとっても大変だったでしょう。
私のお気に入り
この曲はたいへんな人気曲で、またかなり古い時代から積極的に録音がされていたレパートリーでもあるので、とてもお薦めをすべてご紹介できません。
今回は、どうしてもご紹介したい3人の指揮者だけにしぼってご紹介します。
まずは、ヨゼフ・クリップス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏。
この曲の第1楽章は、大ヒットした映画『アマデウス』でたいへん効果的に使われたこともあって、そのショッキングでさえある冒頭を強調する演奏が多いのですが、クリップスの演奏はそこまでではありません。
むしろ、やや控えめなテンポの演奏に属するかもしれません。
ここでのヨゼフ・クリップス(1902-1974)は、オランダの名門コンセルトヘボウ管弦楽団の芳醇な響きをゆたかに鳴らして、過度に刺激的になることを避けているようです。
そのこともあって、随所に木漏れ日のような、温かさを感じる瞬間がほかの演奏よりおおく散見されます。
特に深い印象をのこすのが、第2楽章。
この時代の指揮者としてはかなり速めのテンポをとっていて、とても素直な、小さな歌のように演奏されています。
この演奏を聴いていると、この第2楽章、それから第3楽章の中間部など、まだまだ少年モーツァルトの声、あるいはその面影がはっきりと聴こえてくるようで、何かほっとさせられるものがあります。
この作品はモーツァルトの飛躍的進歩の好例として、突然変異のような位置づけを研究者からあたえられることの多い作品です。
でも、このクリップスの演奏を聴くと、なるほど、18歳でしか書けない、大人と子どものあいだのような音楽という側面も感じられて、この交響曲がモーツァルトの生涯の大切な一時期を映し出したようにも感じられてきます。
そうしたことは、この演奏を聴いて、はじめて感じられたことです。
モーツァルトはもちろん、作曲家のなかでは飛びぬけて無垢で、いつまでも純粋さを失わなかった天才ですが、クリップスで聴くと、もっともっと幼いころ、モーツァルトの最初期の作品のエコーすら聴こえるようで、それが曲全体を覆う短調のひびきと、いびつで鮮やかな対比をなしています。
これは本当に名演奏だと思います。
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オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団は、意外なほど速いテンポの、前のめりに演奏される第1楽章に驚かされます。
クレンペラー(1885-1973)はドイツ出身の伝説的な大指揮者。
大作曲家マーラーの直弟子です。
その破天荒な性格や行動もあって、様々なトラブル、病気、怪我にみまわれて、最後には体が不自由になってしまい、そのせいで速いテンポがとれなくなったものの、かえって演奏が雄大になり、巨大な造形を手に入れ、結果、自身の指揮芸術を大成させたという、並はずれた巨匠です。
晩年の録音はどれもテンポが驚くほどゆっくりなのですが、例外的に、このモーツァルトの25番ではとても速いテンポを要求しています。
しかも、テンポが速いだけでなく、わざとフレーズを前のめりに演奏させています。
第1楽章の締めくくりも一切テンポを落とさず、疾風のごとく駆け抜けていきます。
モーツァルトのデモーニッシュな側面を教えられる演奏です。
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YouTubeにある1950年のRIAS交響楽団との録音でも、ほとんど同じスタイルをとっているので、これがクレンペラーによるこの曲への結論だったのでしょう。
息ぐるしいほどのアレグロ。
そして、決して忘れられないブルーノ・ワルター(1876-1962)指揮のものを最後に。
先のクレンペラーと同じく、彼も大作曲家マーラーの直弟子です。
モーツァルト演奏の権化だったこともあって、複数の録音が残っています。
1950年代にウィーン・フィルを指揮した記念碑的な名演奏は2021年9月現在オンラインで配信されていないようなのですが、すばらしい名演奏ですので是非CDをさがしてみてください。
こちらの番号( →EAN: 4988009287959 )の1989年に発売された古いCDが音も自然でお薦め。
ここでは、1954年におよそ78歳のワルターがコロンビア交響楽団と録音したものがYouTube、その他のネット配信ともにありましたのでそちらをご紹介します。
こちらもたいへんな名演奏。
まず、年齢をまったく感じさせない、若手のような勢いで指揮する第1楽章におどろきます。
ただ、同じように速いテンポを採用していたクレンペラーと決定的に違うのは、ワルターには随所に美しい呼吸があるところです。
劇的でありながらも、いたるところで、優美さがふとした瞬間に咲き出します。
どんなにデモーニッシュであっても、モーツァルトはやっぱり美しくなければいけないというように。
とりわけ第2楽章で、そのゆったりとしたテンポにより甘美さがただよいます。
けれど、その他の楽章であっても、さまざまなフレーズのなかに、はっとさせられる美しさがちりばめられています。
しかもそれを、何でもないかのように、自然にやってのけているのが、このワルターという指揮者の奥深さ。
( YouTube↓、AppleMusic ・ Amazon Music ・ Spotify ・ LineMusic )
クリップスの名演についてのマニアックな補足
なお、最初にご紹介したクリップスの演奏ですが、すでにCDでお持ちの方のなかには「そこまでいい演奏じゃないよ」という反論がもしかしたら、あるかもしれません。
というのも、近年販売されたこの演奏のCDは、音が艶消しされてしまって、のっぺらぼうのようになってしまっているものが多いからです。
私も2000年代に発売されたもので最初出会って、がっかりした経験をしました。
素晴らしさがはっきりと聴きとれるのは、私の知る限りでは、CDでは1990年代はじめまでのものです。
PhilipsレーベルのCDはおよそ、どれもそういった傾向があります。
CD派の方は1980年代~1990年代はじめの頃のCDで聴きなおしてみてください。
中古でわりと容易に手に入ります。
Amazonのマーケットプレイス、ディスクユニオンなどのサイトで「mozart, krips」で検索すると見つかるはずです。
画像はAmazonの商品ページにリンクしてありますので、もし幸運にも中古在庫があれば、是非手に入れてみてください。