イギリスの作曲家というのはドイツ・オーストリア系の作曲家たちとくらべると、ややマイナーというか、コンサートでもそこまで演目にあがりません。
ここにご紹介するジェラルド・フィンジもまた、地元イギリスでは高名ですけど、その他の国ではそこまで演奏される機会が多い作曲家とは言えないでしょう。
実際、フィンジの曲はコンサートのメインディッシュになりにくい、内向的な性格の作品が多いのも確かです。
でも、それはそれでいいと思います。
みんながみんな、夏のひまわりのように目立つ必要はないわけで、小道に咲く花もあっていいわけです。
あまり目立たない花かもしれませんが、ここには気づかずに通り過ぎるにはもったいない美しさがあります。
今回は、知る人ぞ知る英国の作曲家、ジェラルド・フィンジの世界です。
曇り空の下で聴きたい音楽
ジェラルド・フィンジは1901年、ロンドン生まれ。
1956年に亡くなっていますので、20世紀の前半、つまり2つの世界大戦の時代を生きたことになります。
若いころに、父親、兄弟3人を亡くしたこと、そしてさらには、心から慕っていた作曲の師匠アーネスト・ファーラー(フィンジの16歳年上)が第一次世界大戦で徴兵されて間もなく戦死してしまったことが、彼の人生観、作風に強く影響を与えたと言われています。
王立音楽院の教授を務めたりしたものの、ロンドンでの都会生活を好まず、30代になると結婚を機に田舎へ引っ越して、作曲のかたわらリンゴの農園を始めています。
貴重な種類のリンゴを保存したり品種改良を研究したり、かなり本格的に取り組んだようです。
今もフィンジが住んだ家が残っていますが、とても穏やかでのどかな田園風景の広がる場所です。
作品数はかなり少なくて、生涯に書いた作品は番号がついているもので40曲ほどしかありません。
その最後の作品40は『チェロ協奏曲』。
世界初演の翌年におこなわれたロンドン初演はラジオで放送され、当時すでに体調を崩していたフィンジは、奥さんの手配で病院でそのラジオ放送を聴くことができました。
そして、自身の代表作のひとつとなったその音楽を聴いた翌日に、フィンジはこの世を去りました。
作風は内向的、内省的で、音楽がどんなに盛り上がってフォルテッシモになったとしても、どこか胸に秘めたものを感じさせます。
太陽が輝き、晴れわたるようなことはほぼなくて、彼の音楽を聴いていると、私はいつもどこか曇っている空を連想してしまいます。
とはいっても、どんよりとした不穏な暗雲ではなくて、ほの暗いというか、つまりは、少しだけれども常に光がそこにあるのがこの人の音楽の特徴にも思えます。
いつもどこか、ほのかな優しさがあるように聴こえます。
彼が残した作品の大半は歌曲ですが、今回は数少ないながら、本当に美しいオーケストラ曲から3曲をご紹介します。
ピアノと弦楽のためのエクローグ 作品10
作品10となっていますが、初演は作曲者が亡くなって4か月後です。
未完に終わってしまった「ピアノ協奏曲」の第2楽章として構想されたもののお蔵入り。
それから20年ほどして改訂されたものの、やはり出版されることはなく、作曲家の死後、ようやく独立した作品として初演されました。
フィンジはこうした長い期間で、少しずつ手を入れて仕上げていく作曲スタイルだったようです。
10分ほどの作品。
題名の『エクローグ』は田園詩、牧歌のこと。
これはフィンジ自身がつけたわけではなく、この作品の初演・出版に尽力した友人のハワード・ファーガスン(同時代の作曲家、有名な料理人でもある)、奥さんと息子さんによるもの。
どこか切ないバッハ風の主題をピアノと弦楽合奏が静かにつむいでいきます。
三部形式のシンプルな構造を持っていますが、それゆえにいっそう曲の繊細さが際立ちます。
これこそ、初めてフィンジの美しい音世界と出会うのにお薦めの小品です。
フィンジなんて全く知らないという方は、是非、この曲から聴いてみてください。
ここではウィリアム・ボートン指揮イギリス弦楽オーケストラ、ピアノ独奏マーティン・ジョーンズの素晴らしい演奏をご紹介します。
( AppleMusicは↑、Amazon Music、 Spotify、 LineMusic。 CDも出ています。)
クラリネット協奏曲 作品31
おそらくフィンジのすべての作品のなかで、いちばん演奏される機会が多い作品。
クラリネット奏者たちの重要なレパートリーのひとつになっています。
作曲は1948~49年で、フィンジの作品としてはかなり筆が速かったものになります。
その結果生まれてきた音楽も、どこか他の作品にはない筆の勢いが感じられます。
私にとっては、この曲の第3楽章を聴いてフィンジが大好きになった、大切な出会いの曲でもあります。
今でも、フィンジの音楽を聴きたいときに、まず第一に聴きたくなるのは、この曲のこの楽章です。
第3楽章“Rondo:Allegro giocoso ロンド:楽し気なアレグロ”。
野を駆け抜ける風のようにさわやかな楽想を持っています。
こうしたフィンジのアレグロ、私はとりわけ好きです。
初めて聴く音楽というのは、こういう具合で第1楽章から順に好きになるとは限らないものです。
私自身はフィナーレから好きになるパターンが多いです。
何か未知の音楽に触れる場合には、いろいろな箇所をいろいろな演奏で聴いてみると、自分にとっての入り口に出会えるかもしれません。
この曲で一般に、いちばんのお薦めとして挙げられるのは第2楽章“Adagio ma senza rigore アダージョ、しかし厳格でなく”。
フィンジらしい、静けさが支配する楽章です。
第1楽章は初演後、先輩作曲家ヴォーン・ウィリアムズの助言を受けて少し書き直されたようです。
それだけ一層完成度の高い楽章となっています。
とはいっても、やっぱり私としては第3楽章から聴いてみてほしい音楽。
少し人懐っこい魅力的な旋律が、爽やかな弦とともに駆け抜けていきます。
この曲は録音も多くお薦めがいくつかありますが、ここではアンドリュー・マリナーのクラリネット、サー・ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セントマーティン・イン・ザ・フィールズの録音をご紹介します。
( AppleMusicは↑、Amazon Music、Spotify、LineMusic )
ちなみに、このページでご紹介する3つの音源には、偶然それぞれにクラリネット協奏曲が入っています。
どれも素晴らしい演奏ですので、どうぞ安心して耳を傾けてみてください。
このCDは現在廃盤で入手できないのですが、以前、一度だけ近所のブックオフで見かけました。
とりあえず他の商品を見てから買おうと思って戻ってみたら、もう棚にありませんでした。
その後一度もお目に書かれていないので、今もって悔しい思い出です。
でもきっと、私ではなく、そのとき買ったその人の手元に行くべきものだったんでしょうね。
そう思うことにしています。
チェロ協奏曲 作品40
フィンジ最後の作品番号40を与えられている作品。
フィンジにチェロ協奏曲の作曲を強く求めたのは、私の大好きな指揮者サー・ジョン・バルビローリだったそうです。
バルビローリは以前ほかの記事で書いた、私がインフルエンザになったときに聴き倒したあの指揮者です。
もちろん、世界初演はバルビローリ指揮ハレ管弦楽団で行われました。
録音がどうも残っていないようなのが、返す返すも悔しいところ。
先にご紹介したように、翌年のロンドン初演はラジオでも放送されました。
残念ながらバルビローリは体調不良で別の指揮者が指揮をしています。
それでもフィンジが亡くなる前日に自作品、それも代表作となるような作品のラジオ初演を耳にできたというのは、作曲家として幸せなことだったと思います。
この曲を作曲当時、フィンジはすでに余命宣告を受けていたということで、音楽もより切実な心情の吐露になっています。
第1楽章は劇的で、大傑作であるエルガーの「チェロ協奏曲」に通じるような、痛切な音楽が聴かれます。
第2楽章は“Andante quieto 穏やかなアンダンテ”。
フィンジが奥さんを描いたものと言われている楽章です。
この楽章についてはかなり早い時期のスケッチが残っているようで、奥さんをチェロ協奏曲で描こうという想いがずっとあったようです。
この最後の大作の真ん中に奥さんの肖像画をかかげたところにも、彼の深い愛情、本質的にロマンティックな気質を垣間見ることができます。
18歳までに父、兄弟、恩師を失うという深い悲しみの内を歩いた人ですが、最後には、こうした音楽を書いてこの世に別れを告げる。
本当に偉大な人生というものが世の中にはあるのだと、感動せずにはいられない音楽です。
第3楽章は“Rondo: Adagio-Allegro giocoso ロンド:アダージョ – 楽し気なアレグロ”。
チェロの雄弁なピチカートのアダージョに続いて、クラリネット協奏曲と同じく “楽し気なアレグロ” に入ります。
印象的な跳躍を含むその主題は第1楽章と第2楽章を抱きかかえながら、どこかを突き抜けようとする勢いを感じさせるもので、この大作のフィナーレに実にふさわしい雄大さを持っています。
お薦めの演奏として、まだ20代だったヨー・ヨー・マのチェロ独奏、ヴァーノン・ハンドリー指揮ロイヤル・フィルが演奏しているものをご紹介します。
Lyritaというややマイナーなレーベルの録音なのでCDだとなかなか見つからなかったりするのですが、オンラインでしっかりと音源があがっていて嬉しい驚きでした。
( AppleMusicは↑、Amazon Music、Spotify、LineMusic。CDも出ています。)
今回はイギリスの作曲家ジェラルド・フィンジをご紹介しました。
自分はフィンジがこんなに好きだったのかと、書いていて少し驚きました。
何かこう、じっと耳をすましているうちに感情移入せずにはいられなくなるような音楽を書いた人といってもいいのかもしれません。
私が持っているCD(イギリスの大手レーベル、ロンドン・デッカのCD)の解説書の冒頭は
“Gerald Finzi will perhaps never be regarded as a major figure in English music,~”
(ジェラルド・フィンジがイギリス音楽の主要な人物とみなされることはおそらくないだろうが、…)
という出だしで始まっています。
本国イギリスですらそうなのです。
クラシックの世界にはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、さらにはブラームス、チャイコフスキー、マーラー達がいて、イギリスに限ってもエルガーという大作曲家がいて。
でも、そうした大家だけを聴いていればこと足りるというのは、何かちがう気がします。
桜が咲いていて、その周りに菜の花があったり、名も知れない小さな花やそれを取り囲む緑があって、さらには青い空が広がっていて、それでようやく、私たちは桜のある景色を美しいと思うわけです。
アスファルトの真ん中にぽつんとある桜だったら、どんなに眺めたって、そこから本当の美しさにはたどり着けないんじゃないのかなと思ったりします。
もしフィンジを聴いていなかったら、今ほどイギリス音楽が美しいとは気づけなかったんじゃないかとすら思います。
静かで目立たない存在。
けれど、とっても素敵な音楽をつむいだ人。
オンラインで音楽が手軽に聴けるようになって、こうしたなかなかCDでは手に入らなかった作曲家の作品をすぐにご紹介できるのはとてもうれしいです。
フィンジにはまだまだ素晴らしい作品がありますし、イギリスのほかの作曲家にもまだまだ素晴らしい人がいらっしゃいます。
けれど、それはまた別の音楽。
またいつかどこかの機会で。