ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のコンサートを聴いてきました。
この日のメインは、ブルックナー:交響曲第2番という、かなり渋いプログラムでした。
先週のショスタコーヴィチの交響曲第4番で壮絶な演奏を体験したばかりですが、こちらの演奏会も良い意味で予想をうらぎられました。
前にブルックナーの9番を聴いて、このコンビのブルックナー・シリーズには疑問を持ったのですが、今回の公演を聴いて、今後の展開がたのしみなものに変わりましたので、今回も、思いつくままに、つれづれにつづっていきます。
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プログラム
今回聴いた公演は、2022年10月23日(日)14:00~サントリーホールでおこなわれたコンサート。
プログラムは以下のものでした。
シェーンベルク:5つの管弦楽曲 op.16
ウェーベルン:パッサカリア
ブルックナー:交響曲 第2番 ハ短調
どうでしょう、この渋いプログラム。
これがウィーン・フィルの来日公演というのなら、会場はそれでも満席になるのでしょうが、サントリーホールを見渡すかぎり、さすがに7割前後の入りでした。
プログラム的に仕方ないと考えるべきか、このプログラムでそれだけの動員をしているのはさすがと見るべきか。
私は、このコンビのやっていることの素晴らしさからすると、どんなプログラムであれ8割以上の座席が埋まって然るべきだと思っていますので、そうなるまでは、なるべく聴く機会を捉えて聴きに行って、且つ、私の期待に応えてもらえたときには、しつこいくらいにブログに書いていこうと思っています。
シェーンベルクとウェーベルン
コンサート前半は、新ウィーン楽派のシェーンベルクとウェーベルンという、重量級のプログラム。
シェーンベルクの『5つの管弦楽曲』は、シェーンベルク初期の「無調」の音楽。
はっきりとしたメロディーや形式のないこの曲について、何度聴いても「理解する」ことはできないのですが、いつも不思議に思うのは、それ以前の音楽とは一線を画した、とっても「新しい」音楽表現であるのに、何かの「爛熟と下降、たそがれ」を感じさせるのは何なのだろうと思います。
そして、それが私にとって、この曲のおおきな魅力のひとつであり、近現代の作品を得意とするノットと東京交響楽団は、その魅力をじゅうぶんに堪能させてくれました。
そして、それに輪をかけて素晴らしかったのが、ウェーベルンの『パッサカリア』でした。
これは、ウェーベルンの“作品1”という記念碑的な作品。
シェーンベルクの門下生だったウェーベルンですが、シェーンベルクのさきほどの作品がどこかノスタルジーを感じさせるのに対して、こちらは、まだ音楽が若々しい息吹をもっていて、ロマン派の夢の終わりをみているよう。
ノットと東響の演奏にも、夢見るような美しさが漂っていました。
作品自体もそうですが、彼らの演奏そのものも「難解さ」よりも「美しさ」が際だったもので、きっとこの日の白眉はこのウェーベルンなんじゃないかと思ったほど、ひたすらに美しい音の世界が実現されていました。
ブルックナーの楽章順序の入れ替え
でも、そのウェーベルンと同じくらい、後半のブルックナー:交響曲第2番もまた、聴きものでした。
コンサート数日前に、公式ホームページにジョナサン・ノット自身の言葉で「楽章順序を入れ替える」ということが発表されました。
通常、第3楽章に置かれているスケルツォを第2楽章として演奏して、そのあとに、ゆっくりとしたアダージョ(アンダンテ)の楽章を第3楽章として演奏するということでした。
要は、ブルックナーが交響曲の作曲に関して重要視していた、先輩作曲家ベートーヴェンの交響曲第9番〈合唱つき〉の楽章構成と同じ配列にするというのが、ノットの狙いのようでした。
ブルックナーの楽譜というのは、ノヴァーク版だとかハース版だとか、第1稿、第2稿、決定稿などなど、いろいろな種類のスコアが存在しているうえに、この第2番の交響曲については、第1稿がノットの配列した楽章順とまったく同じなので、驚くような変更ではありませんでしたが、この変更によって、第2楽章にスケルツォを持ってこようとするノットの姿勢には不安を感じました。
つまり、この前のマーラー5番のように、第1楽章がもう一度やってきたかのような、ひたすらアグレッシブなスタイルによるスケルツォが演奏されるのではないかと、この変更をきいて、そのことがいちばん気がかりでした。
ブルックナーがはじまる
いよいよ、演奏が始まります。
冒頭の弦楽器のざわめきの中から、チェロによって第1主題が奏されます。
その入り方。
何もないところから、自然と主題がふっと湧き出てくるかのような、しなやかで美しいクレッシェンドを聴いたときに、私の「ノットのブルックナー」への警戒心がすっと和らぎました。
さらには、第2主題の、素朴なひびきを尊重した音のつくり方も、良い意味で予想を裏切られました。
以前、第9番を聴いたときには、スケルツォ楽章はもちろんのこと、とにかくフォルテの箇所が攻撃的な表情ばかりで辟易してしまったのですが、なにか、あのときから一皮も二皮もむけたようなブルックナー像が描かれようとしているのが伝わってきました。
いわゆる往年のブルックナー指揮者たちが聴かせてくれた荘厳なブルックナー像とは全然ちがうのは確かですが、だからといって、最近流行っている「鋭角的」なブルックナーともちがう、スタイリッシュでモダンではあるけれど、ウィーンの音楽家の素朴な音色も十全に活かそうという、あたらしいブルックナーが聴こえてきました。
驚いた第2楽章スケルツォ
素晴らしい第1楽章のあと、ついに、不安の種である第2楽章がやってきました。
そして、この日いちばん驚いたのはこのときでした。
ノットは意外にも、適切に抑制のきいた、絶妙なテンポのスケルツォを振りはじめました。
「あ、やっぱり前のノットとは違うんだ」と、ここで確信が持てました。
じゅうぶんに躍動的だし、ノットらしいアグレッシブな表情もあるけれど、その加減がとっても絶妙。
第1楽章との描き分けも、見事なほどにしっかりとなされていました。
そして、トリオでは、懐かしいくらいのあたたかな音色が尊重されて、それは少し鄙びた味わいまで感じさせるほどでした。
耳を奪われる、素朴でやさしい歌が展開していきました。
この楽章のおしまいのコーダでは、いよいよノットの劇的な音楽づくりが冴えて、むしろ、これほど見事なコーダをやられてしまうと、通常の楽章順でそのまま第4楽章フィナーレに流れ込んだほうが自然だったように思えたほどでした。
美しくてなつかしい、第3楽章
楽章順をいれかえてあるので、さきほどのスケルツォのあとには、ゆっくりとした第3楽章が演奏されました。
ベートーヴェンの第九の楽章順と同じということですが、そうなると、ベートーヴェンの第九がそうであるように、当然、この第3楽章におおきな比重が置かれるわけで、おそらく、ノットの主眼もそこにあったのではないでしょうか。
実際、この第3楽章がとっても美しく、この日のブルックナーの頂点になっていました。
美しくて、心のこもった音の数々。
弦、木管、ホルンを中心とした金管、そのどれもが、最上のひびきでもって、ノットの理想とする緩徐楽章を描いていきました。
そうして、コーダへと到達したときです。
ノットと東京交響楽団は、ぐっと音量を落として、信じられないくらい美しいコーダを出現させました。
呼吸をするのもはばかられるくらい、息をのむような美しい静けさ。
こんな美しい弱音は、そうそう体験できるものではありません。
時が止まってしまったかのような、ピアニッシモで満たされた音楽の空間。
このまったき静けさこそが、この日、ノットが最も描き出したかった音楽だったんじゃないかと思います。
今回ベースになっている第2稿ではクラリネットが担うはずの終わりのソロを、初稿のホルンに戻したのも、ノットが何か夢幻的なものを描きたいと考えていたからではないかと感じました。
こうした美しいコーダがあるからこそ、ノットには第3楽章にアンダンテを持ってくる必要性が生じたのだと納得される演奏でした。
フィナーレ、ワーグナーの慧眼
アントン・ブルックナー(1824-1896)は1873年、49歳の誕生日を迎えるちょっと前に、崇拝するリヒャルト・ワーグナー(1813-1883)をバイロイトに訪ねます。
忙しいワーグナーは田舎者のブルックナーのことを適当にあしらって追い出したものの、献呈したいとブルックナーが置いていった交響曲第2番と第3番のスコアを見るやいなや、その才能に驚いて、慌ててブルックナーをさがしに家を飛び出し、祝祭劇場の建設現場を見ていたブルックナーを見つけて夕食に招いたという、有名なエピソードが残っています。
ブルックナーにどちらの献呈をお望みですかと聞かれたワーグナーは、「トランペットではじまるニ短調のほうを」と答えたといいます。
つまり、ワーグナーは、この日ノットと東京交響楽団が演奏した第2番ではなく、第3番のほうを高く評価していたということです。
ワーグナーという人は、人間的にはずいぶん問題だらけの人だったという印象がありますが、こうして、ブルックナーの価値を即座に見抜いたり、しかも、第2番ではなく第3番に高い評価をすぐに下せるあたり、やはり紛れもない天才だったのだと痛感します。
ジョナサン・ノットと東京交響楽団のブルックナーの交響曲第2番、ここまで丹念に演奏されると、ブルックナーのその後の作品と比べての曲の弱さが見えてきたのも事実です。
フィナーレを聴いていて、やや緩慢に感じるところがあったりしたのは、演奏のせいというより、曲のもつ問題点が表面に出たといってもいいように思います。
第2番でこれほどの演奏を展開されてしまうと、やはり「第3番」以降の作品をこのコンビで体験したいという思いが強くなります。
この曲は、誰の演奏で聴いても、やや「唐突」に感じる長調のコーダで閉じられますが、それでも、曲の許す限りのドラマをもって、ノットと東京交響楽団は見事なコーダを実現していました。
こうした場面での、このコンビらしい切込みの鋭さはさすがのもので、力感溢れるクライマックスに到達していました。
最後の和音が鳴ったあとも、ホールはその残響の余韻がじゅうぶんに響きわたるだけの静けさに満たされて、感極まっている様子のジョナサン・ノットの小さなうなり声が少し聴こえてきました。
今後のブルックナーのシリーズも期待
このコンビは、今シーズン、ベートーヴェンの交響曲については全曲演奏を完了するようですが、そのほか、マーラー、ショスタコーヴィチ、そして、ブルックナーのシリーズが展開中です。
これまでの印象では、とにかくアプローチがアグレッシブなので、ショスタコーヴィチはいちばん安心して聴きにいけるものの、マーラーとブルックナーのシリーズはどうも不安がつきまとうというのが率直な印象だったのですが、少し印象が変わってきました。
前回のレビューでも書いたとおりで、ショスタコーヴィチについては、なにかひとつ突き抜けた領域に到達している感じがして、今後、まったく目の離せないシリーズになりました。
そして、ブルックナーのシリーズについても、今回のものを聴く限り、新しいブルックナー像を模索するシリーズとして、楽しみなものに変わってきました。
何といっても、攻撃的過ぎるアプローチが影をひそめたことが大きいです。
その「抑制」によって奥行きのある響きが尊重されるようになり、楽章ごとの描き分けも鮮やかで、それでいて、ここぞというときの切込みの鋭さは健在という、今後のシリーズに期待を持たずにいられない内容になってきました。
このアプローチで、すでに演奏されてしまった第9番などの傑作をもう一度聴きなおしてみたいという思いがします。
あたたかい雰囲気の会場
こうした、かなり渋い曲目でも足を運んでくるお客さんが集まっていたわけですから、会場には、東京交響楽団に思い入れがある方も多く集まっていたのでしょう。
当日は、この楽団のアシスタント・コンサートマスターを24年間つとめているという廣岡克隆(ひろおか・よしたか)さんが、11月からの楽団長就任(楽団ホームページ)にあたって、演奏者として舞台に上がる最後の日。
そうした事情をご存知の方が少なくない雰囲気でした。
オーケストラの入場のとき、この日は他の団員とは別に、第1コンサート・マスターであるグレブ・ニキティンと二人並んで登場した廣岡さんには、ひときわ大きな拍手がおくられていました。
これ以降も、いろいろな場面で廣岡さんにたくさんの拍手がおくられて、最後のカーテンコールでは、ジョナサン・ノットとふたりでカーテンコールを受けていらっしゃいました。
聴衆のみならず、ほかの団員からもあたたかな拍手が何度もおくられて、楽団の雰囲気のよさが伝わってきました。
こういうことは、演奏そのものに関係ないという意見もあるでしょうが、実際はそうでもないように感じます。
団員相互に活発な議論が交わされているような楽団には活発なひびきがしますし、縦社会が出来上がっている楽団は、やはりそういう音がします。
あのサー・ゲオルグ・ショルティ(1912-1997)がシカゴ交響楽団の指揮者に就任したとき、彼がすぐに取り組まなければいけなかった仕事のひとつが、犬猿の仲になっていた管楽器奏者2名の仲直りをさせることだったと本人がインタビューで語っていました。
険悪な2人の関係がいよいよ来るところまで来てしまったときに、ショルティは「君たちが仲直りをしないなら、私は音楽監督を辞める」とまで迫って、何とか仲直りをさせたんだそうです。
オーケストラといえども、人間のあつまり。
演奏に反映しないわけがありません。
廣岡さんの最後のステージが、とても素晴らしい内容で幕を降ろしたことに、他人事ながら、とても安心し、うれしく思いました。
今後のいっそうのご活躍をお祈りしています。
このブログでは、「コンサートに行こう!お薦め演奏会」のページで、私が主観的に選んだお薦めコンサートをご紹介しています。
現在、ノットと東京交響楽団は、私のブログでいちばんのお薦めコンビになっています。
来年度のラインナップが間もなく発表だと思うので、楽しみにしているところです。
発表され次第、お薦めのものをピックアップしてご紹介していきます。