シリーズ《オーケストラ入門》、今回はチャイコフスキーの荘厳序曲『1812年』。
クライマックスで大砲が使われたりもするので、祝典的なコンサートのクライマックスで演奏される機会が多い曲です。
いつも通り、クラシック初心者・入門者でも親しみやすいように、曲にまつわるエピソードや聴きどころ、お薦めの音源もあわせてご紹介していきます。
目次(押すとジャンプします)
高校での思い出
わたしが高校3年生のとき、歴史が得意な友だちから「問題に出てきたんだけど、世界史で1812年って何があった年なんだろう?」と聞かれました。
「1812年!!」。
1812年だけは、どんなに歴史が苦手でも、クラシック音楽が好きな人間は説明ができるんです。
彼とちがって歴史が得意ではなかった私は、歴史が得意な彼に頼られて、しかも、彼に説明できることがうれしくて即答しました、「1812年は、ナポレオンがロシア遠征した年だよ」。
彼は少し驚いた様子で、「すごい!即答じゃん!!なんでそんなの覚えてるの?」と。
私はさらにうれしくなって、チャイコフスキーがこの出来事をもとに序曲『1812年』という音楽を作曲したことを、背景などをふくめて説明しました。
すると、その友だちが笑いながら「ふむ…ほんとなんだな。」と一言。
私が「何が??」と聞くと、「だましたみたいで悪いんだけど、昨日、予備校の世界史でフランス革命あたりをやったんだ。そしたら、その先生が、クラシック好きな友だちがいたら、その子に1812年て何があった年か聞いてみろって。100%の確率で、チャイコフスキーの『1812年』の解説を喜んでし始めるからって」と彼。
「おいー!何だよ、全力で解説してめっちゃ恥ずかしいじゃん!」と笑いあったことがありました。
この曲の題名を聞くと、必ず思い出します。
高校での、わずか数分の休み時間での出来事。
それが、こうしてずっと思い出として残っているというのは、ほんとうに人生は不思議です。
1812年て何があったの?
1812年は、ナポレオンがロシア遠征をおこなった年です。
フランスのナポレオンは大軍を率いてロシアに侵攻、首都のモスクワを占領するほどの勢いを見せたんですが、折りしも季節はめぐって冬が到来。
いわゆる“ 冬将軍 ”と呼ばれているものです。
モスクワを焼き払って食糧や物資をフランスに入手させないというロシア側の作戦も功を奏して、厳しい寒さのなかで、やがてフランス軍は食糧もつき、ロシアの反撃もあって、敗北。
ヨーロッパ制覇をめざしていたナポレオンの没落のきっかけとなりました。
つまり、1812年というのは、ロシア側から見れば、ナポレオン軍を追い払った歴史的な勝利の年ということになります。
フランス革命、そして、ナポレオン・ボナパルトという英雄の登場は、音楽の世界にも大きな影響を与えました。
特に、ベートーヴェンが彼の交響曲第3番変ホ長調を当初『ボナパルト』と名づけて、献呈しようとしていたことは有名です。
お金のために書いた
1812年から70年後、1882年にナポレオンとの戦争の記念として建立された大聖堂が完成予定でした。
その大聖堂の前で演奏する音楽として、チャイコフスキーがこの1812年という年を題材に音楽を書くことになります。
この曲はチャイコフスキー40歳となる1880年に作曲がなされますが、この年には『イタリア奇想曲』や『弦楽セレナーデ』なども書かれていて、相次いで傑作がうまれていた、いわゆる「傑作の森」の一時期でした。
ただ、この『1812年』の曲については、明らかに作曲に乗り気ではなかったことが数々の手紙にはっきりと書かれています。
それでも引き受けたのは、チャイコフスキーの恩人であるニコライ・ルービンシュタインという音楽家からの依頼で断りにくかったことと、何よりチャイコフスキーもひとりの人間、生活費を稼がなければならないという現実問題がありました。
つまり、お金のために書いたという経緯があります。
現代の私たちはお金にまみれてしまっているので、何の抵抗も感じないのがむしろ普通なのかもしれませんが、チャイコフスキーは「お金のために書いた」ことを自分で腹立たしく思っていたようで、この曲に寄せる愛情はないとまで手紙に書いていたほどです。
でも、そのことを考えるときに、私はロシアのチャイコフスキー資料館の女史があるドキュメンタリーで語っていた「1812年は、確かにチャイコフスキーがお金のために書きました。それは純粋に芸術的な動機ではなかったけれど、でも、書いている最中の彼は純粋でした」という言葉をいつも思い起こします。
チャイコフスキーへの揺るがない敬意を感じられる、素敵な言葉です。
そうして、作曲者本人が当初毛嫌いしていた作品ですが、数年後に再演をしたころから自身での評価が変わって、最終的には作品に満足を覚えたことが日記にも記されています。
ちなみに、チャイコフスキーの没後になりますが、オーストリアのウィーンでの初演は、あの大作曲家マーラー指揮するウィーン・フィルの演奏だったそうです。
🔰初めての『1812年』
演奏時間は15分ほど。
チャイコフスキーの円熟期ならではの、親しみやすい旋律と見事な展開で、とても聴きやすい傑作です。
最初は弦楽合奏によるロシア聖歌で始まりますが、ここを合唱団に歌わせる演出も多いです。
そのあとは、さまざまな闘争を表しているであろう勇壮な音楽、そして素朴な民謡風の旋律、さらには、フランスを象徴する「ラ・マルセイエーズ」が断片的に現れたりと、音によるドラマが展開されます。
最後には、ロシアが勝利したことをたたえる壮麗な音楽が、大砲、大きな鐘をともなって歌い上げられます。
ソビエト時代の改ざん
この曲の最後に、ロシア帝国国家ともなった歌の旋律が現れるんですが、ソビエト連邦の時代、そこの箇所が問題視されました。
社会主義の思想と皇帝を讃える歌が相いれなかったんでしょう。
その結果、ここをロシアの作曲家グリンカの別の音楽と差し替えて演奏することが強制されて、楽譜もそちらが出版されていたようです。
つまりは、政治的理由による、音楽の文書改ざんです。
ただ、それが結構良く出来ていて、いろいろな意味で、まったく凄いことだと驚かされます。
これは現在も、エフゲーニ・スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立交響楽団の録音で確認することができます。
14分15秒あたりからの旋律がグリンカの曲に置き換えられています。
この曲を初めて聴く人には、きっと何の違和感もないはずです。
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私のお気に入り
《ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー》
『1812年』を私が初めて聴いた録音で、今もこれがいちばん好きです。
カラヤン(1908-1989)は、20世紀後半を代表するオーストリア出身の指揮者。
クラシックの世界の主要なポストを独占して、「帝王」と称される活躍を見せました。
ここでは、冒頭の聖歌をドンコサック合唱団に歌わせて、オペラ指揮者だったカラヤンらしい、特別な効果をあげています。
それ以降も手兵ベルリン・フィルの圧倒的な演奏が最後の最後まで繰り広げられて、すがすがしいほどの音のドラマが展開されます。
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《アンタル・ドラティ指揮ミネアポリス交響楽団》
ドラティはハンガリー出身の名指揮者。
アメリカのミネアポリス交響楽団とのコンビでもたくさんのレコーディングが残っていて、そのなかでも特に有名なのがこのチャイコフスキーのアルバムです。
本物の大砲を使用するなど、とても凝った録音になっています。
鐘の音も他の録音と一線を画す、すばらしいものが選ばれています。
しかも、録音したレーベルが特に音質が良いことで有名なところなので、なおさら際だったものになりました。
そうした目立つ箇所以外でも、ドラティの堅実な音楽づくりが息づいていて、最初の弦楽によるロシア聖歌といい、聴きどころが満載の名録音になっています。
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《小澤征爾 指揮 ベルリン・フィルハーモニー》
これは以前、ベルリン・フィルのピクニックコンサートを特集した記事でも一押しした演奏です。
小澤征爾さんの映像作品として、そして、たくさんの録音のなかでも、とりわけ出色の名演奏だと思っています。
これより前に、スタジオ録音されたものもあって、オンライン配信で聴くことができます。
残念ながら、あのピクニックコンサートでの凄いテンションはここにはありませんが、良い演奏であるのは間違いありません。
かなり豪快に大砲の音が入っています。
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《レオポルド・ストコフスキー指揮ロイヤル・フィル》
ディズニー映画『ファンタジア』に登場していた巨匠レオポルド・ストコフスキー。
そのショーマンシップで、映画を含め、幅広い分野で活躍した大指揮者で、とりわけ音響に関して強いこだわりがあって、独自の改変もいろいろと行って演奏をしました。
この『1812年』でも、いろいろな仕掛けを行っています。
いちばん目立つのは、おしまいのところ。
例のロシア帝国国家のところを合唱に置き換えています。
さらに、鐘を潤沢に鳴らして、おしまいの音も変更、オーケストラの演奏が終わっても鐘だけが響きつづけるという演出までしています。
まるで映画のラストシーンのよう。
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《イーゴリ・マルケヴィッチ指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団》
マルケヴィッチ(1912-1983)は、何を聴いても勉強になる、優れて楽譜への切込みの鋭い指揮者ですが、この『1812年』のような祝祭的な音楽をあつかっても、やっぱり他の指揮者とちがう切れ味を感じさせます。
オーケストラの鳴らし方もいつも通りたいへん立派で、立体的でシャープな響きが実現されています。
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