コンサートレビュー♫私の音楽日記

帰ってきた、もうひとりのピアノの女王~マリア・ジョアン・ピリスの日本公演2022

 

今月はピアノの女王マルタ・アルゲリッチの素晴らしいピアノ・デュオ・リサイタル(公演レビュー)を聴いたばかりですが、ここに、もうひとりのピアノの女王が復帰しました。

2018年にコンサート活動からの引退を宣言、もう実演で聴くことはできないと思っていた名ピアニスト、マリア・ジョアン・ピリス(ピレシュ)がステージに帰ってきました。

 

このリサイタルでは、スマホの操作音と思われる音が会場で鳴り響くハプニングもあったのですが、そのハプニングのおかげで気づいたこともありましたので、徒然につづっていきます。

 

プログラム

 

2022年11月29日(火)19:00@サントリーホール

シューベルト:ピアノ・ソナタ第13番イ長調Op. 120,D. 664
ドビュッシー:ベルガマスク組曲
(休憩)
シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D. 960
【アンコール】
ドビュッシー:アラベスク第1番

 

女王の帰還

 

会場が暗くなって、ステージにライトが当たります。

そこへ、ついにマリア・ジョアン・ピリスが姿をあらわします。

 

久しぶりに目にする彼女はやはりとても小柄で、この控えめな立ち姿の女性が現代のクラシック界を背負っているピアニストのひとりなのだと思うと、感慨深いものがあります。

静かなほほ笑みを浮かべながらピアノの前に立った彼女は、聴衆の拍手にこたえるようにその両手を胸の前でかさね、それを額にあてて、何か祈るかのようにお辞儀をします。

ふりかえって、ステージ後方の席のほうへも同じように深くお辞儀をする彼女。

その姿には、どこか神聖なたたずまいすら備わっていて、祈りを捧げる聖女のような雰囲気がありました。

 

以前、彼女のリサイタルに行ったときには、ここまでの澄み切った印象はなかったので、ピリスがいかに美しく年齢を重ねてきたのかがわかる、忘れがたい光景でした。

 

シューベルトが始まる

 

1曲目はシューベルトのピアノ・ソナタ第13番。

以前実演で聴いたときも、ピリスは音の小さいピアニストだと思いましたが、やはり、その記憶の通りでした。

 

けれども、大きくても響かない音があるように、彼女の音はちいさくても響く音。

始まってすぐに、その美しい、ささやくような音に耳をうばわれます。

 

会場にそのしずかなる世界があっという間にひろがりました。

 

ピリスはずっと以前から名ピアニストのなかの名ピアニストですが、それでも、ここまでの絶対的な美しさには、いつ到達したのでしょう。

その音は、透明で、やわらかく、常に静けさに満ちていて、それでいて、じゅうぶんな響きとともに、明瞭さもかねそなえていて、湖上にきらめく光のような輝きがあります。

 

その美しい音でつむがれていく、シューベルトのピアノ・ソナタ第13番。

それはまさに青春の音楽。

限りなくやさしい風情で、爽やかな風に音楽がゆれているかのようで、シューベルトがあこがれ、シューベルトが夢見たものが、実際の音となって紡がれていきます。

 

その美しさについて、何をどう書いても嘘のように感じてしまうほどで、これほどの美しいシューベルトを形容する言葉が、今もうまく見つかりません。

 

私が前に聴いたときはショパンのさまざま作品を並べた公演で、あれも素晴らしいものでしたが、信じ難いことに、現在のピリスはあのときをはるかに凌ぐ美しさに到達していました。

あのときのショパン:ピアノ・ソナタ第3番も、ただ美しいだけでなく、どこか思索的で、ときに沈み込むような音楽まで聴かれて忘れがたい演奏でしたが、ここで耳にするシューベルトの美しさは、もっと孤高の、澄み切った世界のものになっていて、一編の“ 詩 ”のなかに自分が入り込んだような心地になります。

 

それは、まったく純粋で、無垢な音の世界。

これを聴いていると、ピリスという人は、技術や音楽性が並はずれているのはもちろんのこと、心がほんとうにきれいなひとなんだろうと思います。

 

そして、これだけ自然な呼吸に満ちた演奏が展開されているのに、聴いていて、主題やその移行、展開と再現などの形式がはっきりと伝わってくることにも驚きました。

「演奏」という行為のひとつの理想が、はっきりと、ここに実現されていました。

 

第2楽章アンダンテも、そして、第3楽章アレグロも、そのすべての音、音楽が心に直接語りかけてくるものであって、私はただただピリスのシューベルトに耳をすませました。

 

( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)

こちらは2004年の録音で、音楽の方向性は同じですし、この録音もひたすらに美しいものです。

でも、信じられないことに、現在の実演でのピリスは、この録音よりさらに透明で、静謐なうつくしさを持っています。

 

 

ドビュッシー:ベルガマスク組曲

 

2曲目はドビュッシー:ベルガマスク組曲。

ピリスはピアノの前にすわると、会場に拍手の残響がのこっているのも構わず、勢いよく第1曲「前奏曲」を弾きはじめました。

それも、思いのほか速めのテンポで。

 

私はてっきり、さきほどのシューベルトの流れにのって、幻想的なベルガマスク組曲をやると思っていたので、その意外性にびっくりしました。

でも、そのシューベルトとのコントラストの鮮やかさは、思いがけないほどの対比で、その意外性に、愉しさを感じずにはいられませんでした。

 

それでも、やがて音楽がだんだんと静かになっていくと、やはり、そこにはピリスの静かなる世界があっという間に広がります。

その透徹した美しさ。

 

ピリスは、各曲の間をあまり空けずに弾いていきます。

2曲目の「メヌエット」を聴いていてふと気づいたのが、その音色とリズムの“ 乾いた ”明るさ。

それは彼女がポルトガルのリスボン生まれということと関係しているのかわかりませんが、ここに聴かれるドビュッシーはしっとりとした質感のものではなくて、どこか地中海的というか、からっとした明るさを持ったドビュッシー。

 

だから第3曲の、あの有名な「月の光」も、ノスタルジックに響くのではなくて、ほのかな明るさでもって響きます。

この曲は、それこそ色々なピアニストの演奏で聴きましたが、これほど明るい音で弾かれるのは初めて聴くものでした。

ただ、明るいと言っても、それがきわめて美しい弱音によって紡がれるところにピリスの核心があって、明るいけれど、美しい夢を見ているような“ 儚さ ”のほうが前面に出てきます。

 

そして、ほとんど間を空けずに終曲「パスピエ」に。

夏の夜空に明滅する星のきらめきを見ているかのような、あたたかで静かな輝き。

 

ピリスのドビュッシーというのは、あまり印象がなかったのですが、こういう明るい色調のドビュッシーがあるのかと、面白く聴くことができました。

 

 

シューベルトの直前にスマホが響く

 

休憩をはさんで、後半はメインのシューベルト:ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調。

シューベルトの、生涯最後のピアノ・ソナタです。

 

さきほどのドビュッシーとはちがい、ピアノの前でしばし瞑想するピリス。

そして、彼女がまさに弾きはじめようとしたその瞬間、会場にスマホの操作音らしき音が響きわたりました。

 

鳴らしてしまったひとは、生きた心地がしなかったでしょう。

別に、私はここでそのひとを断罪しようとは思いません。

あってはならないことですが、現代では誰もがやりかねないことでもあり、不幸なアクシデントだったと思うことにしています。

 

その不意のスマホの音には私も驚きましたが、舞台上のピリスも一瞬間驚き、そのまま弾きはじめるかどうか迷ったのが見てわかりました。

 

けれども、意外なことに、その次の瞬間には、もう、彼女はあのシューベルトの美しい旋律を弾きはじめていました。

私は、ちょっと一呼吸置いて仕切り直してほしいと思っていたので、ピリスのその判断にも驚きました。

 

そうして始まった第1楽章は、想像していたよりも硬質な音で弾かれていきました。

前半の神がかった美しさはそこにはなくて、いくぶん“ ふつう ”のピアノの音のようにすら感じられました。

いっぽうで、旋律のしたで執拗にくりかえされる三連符に、ピリスが何かを探し求めているのも強く感じられ、でも、それによって、ピリスはいったいどういうシューベルトを紡ごうとしているのか。

それが私にはわからなくて、一生懸命に、耳をすませました。

 

それから、かなりの時間が経過しました。

くりかえされた長い提示部もおわって、さらに展開部に入って、少ししてからのところでした。

ピリスの音が、音楽のデクレッシェンドにともなわれて、前半のような神聖な静けさを取りもどしていくのが、はっきりとわかりました。

 

そこまで聴いて、ようやく私はピリスがあのスマホ音のアクシデントによって、何らかのバランスを欠いて、そこから懸命に軌道修正をしていたのだと確信することができました。

これは、私にとって驚きであり、大きな発見でした。

 

私は舞台を見ていて、ピリスがとても自然体で美しい音楽を奏でていたので、もう、いつ何を弾いても、そうした音をピアノから引き出す境地にいるのだと思い込んでいたからです。

とんでもないことです。

ピリスは、文字通り“ 全身全霊で ”、彼女のすべてを没入することによって、あの透明で、神聖な音を生み出していたわけです。

 

それは精神面でも、そして肉体的な面でも、繊細極まる、精妙なバランスのうえに初めて成り立つものであって、だからこそ、何かの拍子にそのバランスを欠くと、はかなくも、それはあっという間に失われてしまうということです。

水戸光圀の歌だという「見ればただ なんの苦もなき水鳥の 足に暇なき わが思いかな」という言葉を思い出します。

ほんとうにピリスは、何もかもを投げうって、苦労して、あの絶対的な美しさに到達しているのだと、そのとき初めて知ることができました。

 

そうして、本来の響きを取りもどした第1楽章は、そのまま、崇高な美しさをたたえたまま、シューベルトの透き通った白鳥の歌をつむいでいきました。

 

この楽章で特徴的な低音の、ノイズのようなトリルも、ピリスは遠くで鳴っている雷鳴のような趣きで、やや控えめなほどに弾いていきました。

でも、それであっても、その他の箇所の静謐さとの対比は十二分であって、かえって、その静かな雷鳴は何よりも重く、強く、耳に響いてきました。

 

 

この世で最初の音楽は神の吐息

 

第2楽章アンダンテ・ソステヌートは、ピリスの音の静けさとあいまって、まったくの詩的な世界がひろがりました。

 

そして、これは第2楽章にかぎらないことですが、シューベルトの作品では「全休止」が頻出します。

このソナタでも、まるで言葉がとぎれたかのように、無音になる箇所がたくさんあります。

 

そうした箇所での、ピリスの休符は、とても多くのことを語ります。

休符も音符のひとつであり、固有の美しさを持つということをはっきりと教えられる瞬間です。

でも、それでいて、ピリスの休符には、息苦しさがありません。

雄弁な休符というのは、得てして、息をするのもはばかられるものですが、ピリスの休符はちがいました。

 

それは、ピリスの場合、休符のあいだであっても、常に“ 呼吸 ”があるからでしょう。

以前、彼女がテレビで公開レッスンをしていたときに、この“ 呼吸 ”の大切さを生徒たちに何度も説いていました。

「この世で最初の音楽は神の吐息」、たしか、彼女はそう語っていたはずです。

 

ピリスの演奏では、この「呼吸」が、テンポを確定させるとても大きな要素となっているように感じます。

このひとの演奏ほど、聴いているこちら側も自然に呼吸できる演奏はないと感じるほどです。

 

ピリスの語るとおりで、私たちは呼吸を始めたときに生まれ、呼吸をやめたときに世を去ります。

呼吸というのは「生きている」ということであり、音楽に呼吸があるということが、その音楽が生きている、生命が吹き込まれているということの証明となるわけです。

 

青春の音楽家

 

第3楽章も、言わずもがな素晴らしかったですが、あと、ここに書いておきたいのは第4楽章のこと。

このフィナーレは弾く人によって、ずいぶん違う印象を与えられるものです。

 

シューベルトの早すぎる晩年の、最後のピアノソナタであり、それゆえに、ここに諦めや諦念、人生の不条理を見出だす演奏もたくさんあります。

 

ピリスは、けれども、この楽章のなかに、シューベルトの青春の息吹、さらにはもっと純粋な、子どものように無垢なものまでも見出だしているようでした。

ピリスの演奏で聴いていると、冒頭の第13番のソナタで聴かれたシューベルト特有の青春のひびき、それが最後のこのソナタと響きあっているようでもあり、彼が最後の最後まで、その若々しい息吹を音楽のなかにとどめていたことをはっきりと示されたようでした。

 

もちろん、それゆえに、その透明な悲しみはいっそうその鮮やかさを増すことになるのですが、それが決して諦念ではなく、シューベルトの力強い青春の宣言として最後のコーダを駆け上がったときには、雲ひとつない、真っ青な空を見上げたときのような感動がこみ上げてきました。

「それでも、シューベルトは青春の音楽家であることをやめなかったんだ」、私はピリスの演奏を聴いて、そう感じました。

 

こういうシューベルトを奏でられるということは、ピリス自身もまた青春を失っていない音楽家ということでしょう。

これは最近アルゲリッチを聴いたときにも感じたことで、本当にこうした歴史に名前を刻むであろう音楽家の方たちは、どんなに年輪を重ねたとしても、内的な「青春」を失わないようです。

それと、このソナタのフィナーレを聴いていていつも感じるのは、シューマンのピアノ五重奏曲のフィナーレにとっても響きが似ているということ。

シューマンとシューベルト、そこにもまた「青春」の響きの系譜があるように思います。

( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)

 

ピリスは聴かない方がいい?

 

シューベルトのあとには、会場の万雷の拍手にこたえてドビュッシー:アラベスク第1番がアンコールされました。

これも意外なほど速めのテンポが採られていました。

 

会場はあっという間にスタンディングオベーションとなり、ピリスは、それにあたたかな笑顔で応えていました。

もちろん、私も立ち上がって、たくさんの拍手をおくりました。

 

ピリスの復帰公演は、じつに圧倒的な感銘を受けたリサイタルとなりました。

アルゲリッチとピリス。

今月聴いたふたりの女王のリサイタルは、どちらも、もう別格の音楽家たちの、類まれなる音楽の体験になりました。

 

ただ、困ってしまうのは、これほどのリサイタルを聴いてしまうと、ほかのコンサートへ行こうという気持ちがうすれてしまうことです。

 

私は以前、「落語」にはまったときがあって、それこそ耳にするものがどれもこれも面白くて、そのうち、落語通の友人に「古今亭志ん生」という昭和の大名人の存在を教えてもらいました。

たまたま、地元の図書館に古今亭志ん生の落語をおさめたCDが大量にあったので、片端から聴いてみると、これが実に素晴らしくて、夢中になって志ん生の話芸をたくさん聴きました。

すると、今度はそれ以前に楽しんでいた落語が、いたく稚拙なものに感じられてしまって、それ以降、限られた名人のものでないと楽しめなくなってしまいました。

 

ピリスのリサイタルもそうです。

これほどのものを聴いてしまうと、ほかのコンサートが、あっという間に色あせてしまうものがあります。

 

わたしは実際、このリサイタルを聴いたおかげて、いくつかのコンサートのチケットを買うのをやめてしまいました。

それほどの圧倒的な印象を、わたしはこのピリスのリサイタルから受けました。

 

パンフレットによると、ピリスが数年前に引退したのはマネージメント側との意見の衝突がおおきな要因とのことです。

「音楽に身を捧げる立場として、これ以上嘘はつきたくないと思い、引退を決意せざるを得なかった」とあります。

 

こうした姿勢にも、彼女の全身全霊のピアニズムが反映されているように思われますし、その純粋さ、その強さには、まったく脱帽するしかありません。

今後は弾きたい場所で、弾きたい作品だけを弾いていくというピリス。

その「弾きたい場所」に、日本が入っていることは、ほんとうにありがたいことです。

 

ピリスが、つぎ、いつ日本へ来てくれるのか、何を弾いてもらえるのかわかりません。

他のコンサートがどんどんと色あせていくのがわかっていても、でも、一度体験してしまうと、これを聴かずに、ほかの何を聴いても、あまり意味がないように思えてしまいます。

どうか、一日も早く、再来日が実現しますように。

 

一度引退したピアノの女王、マリア・ジョアン・ピリスは、信じがたいことに、さらなる高みに到達して、ステージに帰ってきました。

 

 

このブログでは、オンラインで配信されている音源を中心にご紹介しています。

オンライン配信の音源の聴き方については、「クラシック音楽をオンライン(サブスク定額制)で楽しむ~音楽好きが実際に使ってみました~」のページでご紹介しています。

 

また、お薦めのコンサートを「コンサートに行こう!お薦め演奏会」のページで、随時更新でご紹介しています。

ピリスの再来日が実現するときには、もちろん、そちらでご紹介していきます。

 

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