2022年7月9日(土)15:00@ティアラこうとう(江東公会堂)で、高関健さんが指揮する東京シティ・フィルのコンサートを聴いてきました。
とても清々しい印象の残るコンサートでしたので、感じたことをつれづれに綴っていきたいと思います。
高関健さんのこと
高関健さんは日本を代表する指揮者ですから、今さら私がここにご紹介するまでもないわけですが、今回、初めてその実演を聴く機会を得ました。
私は聴いてみたい音楽家が多すぎて、かと言って毎日コンサート通いをできるような身分ではないので、そうなると、どうしても聴く機会の限られる海外の演奏家を優先することになってしまいます。
そのせいで、まだ聴けていない日本の演奏家の方がたくさんいるのですが、今回、まず高関健さんの演奏会を聴いてみたいと思ったのには理由があります。
それは、沖澤のどかさんという日本の若手指揮者の方が、あるインタビューで高関健さんのことを話しているのを読んだからです。
ここにその記事をリンクしようと探したのですが、掲載が終わってしまったのか、残念ながら見つかりませんでした。
そのインタビューのなかで、彼女が学生時代、藝大でおおきな挫折を味わっていたときに、高関健さんが藝大の指揮科の先生としてやってきて学内の雰囲気を一変させたこと、彼女のことを精神的にもサポートしてくれたことなどが紹介されていて、恩師として感謝しきれないというようなことを話していらっしゃいました。
藝大の雰囲気を一変させ、ああした特殊な競争環境のなかで、生徒のフォローまでしっかりと行っているという名教師の姿。
そうした人間的な魅力にあふれた方とは全然知らなかったので、さっそく実演を聴いてみたいと思ったわけです。
初めてづくしのコンサート
今回のコンサート会場はティアラこうとう(江東公会堂)という、私は初めて行くコンサートホールでした。
ここの椅子は、座り心地がたいへん良くて驚きました。
そして、オーケストラは東京シティ・フィルで、こちらも実演は初めて聴くオーケストラでした。
というわけで、今回は、指揮の高関健さんをふくめ、私にとっては初めてづくしのコンサートとなりました。
コンサートは、バルトークの《舞踏組曲》で始まりました。
冒頭、アンサンブルがややまとまりに欠けていて不安になりましたが、静かな音楽になってから段々と音が凝縮されてきて、曲が進むにつれて、尻上がりに良くなっていきました。
初めてナマで目にする高関健さんの指揮は、何よりもアンサンブルを整えることに心血を注いでいるようで、これほど細かなタイミングまで、ずっと、ひたすらに丁寧に振り続けるひとは、あまりお目にかかったことがありません。
指揮科の教授としても、きっと、とてもわかりやすいだろうと感じましたし、この東京シティ・フィルを含め、比較的若い、発展途上にあるオーケストラの多くが信頼を寄せる理由もうなずけます。
いわゆるオーケストラ・トレーナーという側面を、強く持っていらっしゃる方なんだと思いました。
反面、引き出される音楽に、どうしても四角四面なところが多く、すべてが逐一定義されて、どこか教科書のようにも聴こえました。
クラシック音楽というのは、そういった比喩で言えば、教科書より“ 詩 ”に近い世界であるように感じます。
そこは常にひっかかりました。
また、アンサンブルの整理が優先されるせいか、曲の構造や発展の過程、クライマックスがどこなのかがいまいち伝わってこない嫌いがあって、今、提示部なのか、展開部なのかよくわからないままに、いつの間にか盛り上がっていて、いつの間にかコーダに入ってしまうというのが、すべての曲で感じられました。
ブラームスの交響曲第3番がメインでしたが、特に終楽章ではかなり踏み込んだ、熱のこもった表現が聴かれる瞬間がたくさんあったのですが、いかんせん、そこへの過程がしなやかさを欠いているため、じゅうぶんな効果をあげられていないように聴こえました。
と、そこまで書いておいて何ですが、不思議なことに、つまらなくはないんです。
私は色々とこのブログに演奏会レビューを書いていますが、行ったコンサートすべてのレビューを載せているわけではありません。
率直に言うと「つまらなかった公演」についてはレビューを書いていません。
ただの個人ブログとはいえ、できることなら創造的な内容、生産的な言葉をつづりたいと思っているからです。
つまり、この公演は、それでも面白かったんです。
プログラムの妙
私はこのブログでお薦めのコンサート情報を載せていますが、そのページで、この日の演奏会も推薦しました。
それは、高関健さんが指揮をするということと、さらには、プログラミングがとてもよかったからです。
遅くなりましたが、ここにプログラム全体をご紹介しておきます。
バルトーク:舞踏組曲
モーツァルト:フルート協奏曲第1番 ト長調 K.313
(Fl、首席フルート奏者 : 竹山 愛)
ブラームス:交響曲第3番ヘ長調
アンコールは一切ありませんでした。
それから開演前に、指揮者の高関健さんによるプレトークがありました。
お薦めのコンサート情報のページで、このプログラムはモーツァルトとブラームスの名曲を並べているだけなら何の変哲もない名曲コンサートだけれども、バルトークを冒頭に置いているところにプログラミングの妙があって素晴らしいと書きました。
ですが、ふたを開けてみると、この日いちばんの輝きを放ったのは、真ん中のモーツァルト:フルート協奏曲第1番でした。
すてきだったモーツァルト
冒頭のバルトークがややちぐはぐな印象だったわけですが、2曲目のモーツァルトはおどろくほどの愉悦に満ちた音で始まりました。
うれしくて、つい微笑まずにはいられなくなってしまう、音楽の純粋な喜びが感じられる瞬間でした。
こうしたモーツァルト、最近ではめったに聴くことができなくなりました。
今はもっとアカデミックだったり、先鋭的なスタイルでやるモーツァルトが世界的に流行しているので、こうしたモダン・オーケストラによる“ 自然体の ”モーツァルトに接すると、田舎で採れたての新鮮な野菜を食べるような、余計なことをせず、ありのままがいちばん美味しいんじゃないかと思う、そんな気持ちにさせられます。
高関健さんと東京シティ・フィルの演奏を聴きながら、こういうモーツァルトを鳴らすことができるコンビなんだと、私はとても驚き、幸せな気持ちになりました。
フルート独奏は、楽団の首席フルート奏者という竹山愛さん。
演奏そのものの話の前に、この方の服装もとても印象に残りました。
なかにはモーツァルトをやるのに大仰なドレスを着ていたり、近頃は曲目に関係なく、かなり際どい服装でステージに出てくる演奏家も少なくないですが、この方はシルバーに淡いブルーのすっきりとしたデザインのドレスで、イヤリングやネックレスといったアクセサリーも控えめなものが選ばれていて、舞台に出てきた瞬間からとっても清々しい印象でした。
私は普段、こうした点にはあまり気がいかない方なので、よほど趣味のいい方なんだと思います。
モーツァルトは「フルート1本よりひどいものは何?それはフルート2本!!」という言葉を残しているくらい、フルートを嫌っていた作曲家でしたが、竹山愛さんのフルート・ソロを聴いていると、どうしてモーツァルトはフルートが嫌いだったんだろうと、不思議に思えてくるほどでした。
完璧に楽しめたかと問われれば、先に述べた通り、楽曲の構造が見えづらいという難点がここでも健在で、そこはやはり残念でしたが。
それから、ソリストの竹山さんは、指揮の高関健さんの左斜め後ろに立って、オーケストラを完全にバックにする演奏体型が組まれていました。
それは、オーケストラはあくまで「通奏低音」の存在であり、ソリストがすべてをリードするということ、さらには、フルートの音はすぐにオーケストラの音にかき消されてしまうものなので、それを防ぐという理由もあったのだとは思います。
ただ、聴いていた印象では、竹山さんは、オーケストラを脇にどけてしまうタイプではなく、アンサンブルを大切にする姿勢を失わないタイプの方に感じられたので、おそらく、もっとオーケストラのなかに入る位置で吹いたほうがやりやすかったのではないかと感じました。
ぜいたくを言えばきりはないですが、それでも、このモーツァルトは本当にたのしかったんです。
モーツァルトでよくあらわれる伴奏の弦のきざみも、生き生きとした響きがあって、心地良い躍動が感じられましたし、管楽器の和声もとっても美しく響くときが随所にありました。
新鮮で、音が喜んでいるのようなモーツァルト。
今後、このコンビがモーツァルトの交響曲などを演奏する機会があるなら聴いてみたい、ブログでもお薦めしたいと思って、休憩時間にプログラムを見渡したのですが、残念ながら来年にピアノ協奏曲が1曲組まれている以外は、モーツァルトは皆無。
これは非常にもったいないと思いました。
オーケストラの成長のために、多様な、数々の技術的にむずかしい曲をとりあげている時期なのかもしれませんが、でも、これほどのモーツァルトを鳴らすことができるのですから、モーツァルトをもっと頻繁にプログラムにのせてほしいコンビです。
新鮮なアマチュアリズム、そして、まじめさ
音楽の構築面などにいろいろ難点を感じたにもかかわらず、それでもまた聴きに行きたいと感じさせられてしまったのは、高関健さんとこのオーケストラのコンビが、とても良い意味での「アマチュアリズム」を失っていないからだと思います。
誤解しないでいただきたいのですが、技術的なことで上手いとか下手だとか言っているわけではありません。
音楽に対する姿勢のことです。
このコンビの演奏の姿勢とそこから出てくる音楽が、フレッシュで初々しいんです。
職業的な、商業主義な匂いがまったくしません。
控えめながらも、等身大の、音楽の純粋なよろこび、美しさに対する純粋なあこがれが感じられました。
それから、とにかく真面目な楽団です。
これは、高関健さんの指揮を含め、とても誠実で、まじめな印象をその音楽から受けました。
一方で、まじめな人の話というのは、あまり面白くない面もあったりします。
そこがひとつ、美点でもあり、ハードルでもあると感じました。
でも、何かのきっかけで、そこに火がついて、日常のレールを外れたとき、いわゆる「名演奏」というのが生まれてくるものですから、とっても可能性のあるコンビだと思っています。
このコンサートでのいちばんの聴きものはモーツァルトでしたが、冒頭のバルトーク、メインのブラームスにもそれぞれ、オーケストラの清々しい良さは随所に感じられました。
その意味では、作品そのものというより、発展途上とはいえ、楽団の良さのほうが印象的だったコンサートとも言えるのかもしれません。
このコンビの場外ホームラン、いつか体験してみたいです。
「必ず、また聴きに来よう」と素直に思えたコンサートでした。
それから、モーツァルトのフルート協奏曲、ぜひ第2番も同じように竹山愛さんの独奏でプログラミングしてもらえたらと思っています。
社会情勢に憶病な日本のクラシック界
このコンサートは、安倍晋三元首相が銃撃されて亡くなるという衝撃的な事件が起きた翌日の公演でした。
ですが、このコンサートには、この件に関しての対応が一切ありませんでした。
私は安倍元首相の支持者というわけではありませんが、それでも、一国の元首相である方が銃撃されて亡くなったという事件の翌日のコンサートで、それに対して何のリアクションもなかったというのは残念で、違和感を感じました。
凶弾に倒れた元首相、そして、ショックを受けている日本の多くの一般市民にたいして、何かしらの音楽が奏されるべきではなかったでしょうか。
それが難しいのなら、せめて、公演前におこなわれたプレトークの時間などに、通常の楽曲解説だけでなく、何がしかの追悼の言葉があって然るべきだったのではと感じます。
いずれにせよ、例えばシドニーのオペラハウスには追悼の日の丸がライトアップされたりしているのに、日本のオーケストラは何事もなかったかのようにコンサートを開催しているというのは、どこか違っているように思えます。
ロシアによるウクライナ侵攻開始のときもそうでしたが、日本のクラシック界は社会情勢にリアクションすることに憶病になりすぎているようです。
日本は今やクレーム社会なので、社会情勢にたいして何かリアクションをすると、それに対してのクレームが入るのを恐れているのかもしれません。
その懸念を理解できないわけではありませんが、クラシック音楽というのはベートーヴェン、ショスタコーヴィチの世界であって、市民に寄りそい、社会にメッセージを発しなければいけない世界です。
日本のクラシック界は、変わっていくべきだと感じます。