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今年2024年、もっとも期待していたコンサートに行ってきました。
ブログでも「いちばん期待の公演」として推していたものです。
‥が、残念ながら、期待していたほどのものを聴くことはできませんでした。
目次(押すとジャンプします)
スダーン&東響のシューマン
気になる開演前の空気
東京交響楽団のコンサートで、最近ずっと気になっているのが、開演前のステージ上の空気感の変化です。
昨シーズンまで、東京交響楽団のコンサートは、開演前の空気を感じるのもたのしみで、いつも早めに席については、舞台上での楽団員たちの準備をながめていたくらいでした。
「何かが起きるかもしれない」
そういう予感が舞台上にあふれていました。
今でも、マーラーの交響曲第5番の公演での開演前、舞台上のすごい高揚感をおぼえています。
あの日のマーラーは色々と課題山積でしたが。
ただ、少なくとも、つまらない公演では決してありませんでした。
おおいに議論を喚起するだけの、力のある公演でした。
それが最近は、舞台上にそうした空気をまったく感じなくなってしまいました。
開演前の舞台上は、どこか淡々とした空気がながれているだけです。
いったい、どういう変化が起きているのか。
理由はともあれ、とても残念なことです。
当日のプログラム
今回、私が聴いたコンサートのプログラムは以下の通りです。
2023年12月16日(土)
18:00@サントリーホール
シューマン(マーラー編曲):
交響曲第1番変ロ長調「春」
ブラームス(シェーンベルク編曲):
ピアノ四重奏第1番ト短調
ユベール・スダーン指揮
東京交響楽団
1曲目はシューマンの交響曲第1番「春」(マーラー版)でしたが、ユベール・スダーンのシューマンといえば、過去に、東京交響楽団と優れたレコーディングも残しているレパートリーです。
わたしが実演で接したスダーンのシューマンでは、数年前に聴いた「マンフレッド」序曲とピアノ協奏曲は退屈な演奏で、いっぽう、昨シーズンの交響曲第3番「ライン」は傑出した演奏でした。
今回はどちらが聴けるのか。
シューマンの熱狂はどこへ?
ステージ上にスダーンが登場し、シューマンが初稿で書いたとおりの音程によるファンファーレで「春」が始まってみると、やはり、“ 音 ”が以前のように客席に届いてこないことに、すぐ違和感を覚えます。
小ぢんまりしてしまっている音。
もちろん、外へ外へ広がる音もあれば、そうではなくて、凝縮された、内へ内へむかう音というものもあります。
そうであるならば、客席が思わず前のめりになるような、引き込まれるような“ 音 ”でなければならず、今回のシューマンで聴こえてきた音は、そうではありませんでした。
実際、あらゆる楽器が、物理的にも音量をしぼっていたように聴こえました。
そうすることで、アンサンブルの透明度を高めているのはわかりますが。
以前、スダーンが指揮者を務めていたモーツァルテウム管弦楽団の方とお話しをしたときに、スダーンの特徴についてたずねると“ zusammen ”(一緒に、そろって)という言葉で表現されていました。
実際、そうしたオーケストラ・ビルダー的な手腕において、スダーンはたいへんな力量の方だと思います。
今の東京交響楽団があるのは、間違いなく、ユベール・スダーンの存在があってこそです。
いっぽうで、そうした手腕の副産物なのか、今シーズンのモーツァルト・マチネーをミューザ川崎で聴いたときには、とにかくアンサンブルを整えることに執心していて、カンタービレのきわめて少ない、タテ割り一辺倒なモーツァルトでがっかりしてしまいました。
そうしたものは、一歩間違えれば、何かのエチュードを聴いているような印象になってしまいます。
今回のシューマンも、そうしたものに終始してしまった印象が残りました。
それゆえに、楽想の展開もあまり感じられず、例えば、第4楽章フルートのカデンツの前後で、明らかに音楽が途切れてしまいました。
この交響曲は、もっと美しく、もっと熱狂のある音楽であっていいはずです。
実際、あの演奏に、シューマンの熱狂はあったでしょうか。
シューマンが、クララと結ばれたあと、ドイツの詩人ベトガーの詩にある「 谷間には春が萌えている 」という言葉にインスピレーションを得て、わずか4日間で全楽章のスケッチを終えてしまったほどの、天才的熱狂。
そうしたものが感じられない「春」を聴く楽しみというのは、どこに見出だせばいいのでしょうか。
私がスダーンに期待してしまう理由
予定調和におわったブラームス
私がユベール・スダーンという指揮者にこれほど期待してしまうのは、彼が「プラスアルファの瞬間を持つ芸術家」だからです。
過去の指揮者でいえば、ルドルフ・ケンペ、ラファエル・クーベリックのように。
ふだんは端正な音楽家であるのに、ときに、表現力を全開にした、こちらの想像をはるかに超える、凄い音楽を引き出すときがあるのが、私にとっての、スダーンの最大の魅力です。
東京交響楽団との近年の公演でも、レーガーの「ベックリンによる4つの音詩」、それから、チャイコフスキーのマンフレッド交響曲の演奏は、恐ろしいまでの演奏でした。
そうしたデモーニッシュな作品でみせる、壮絶な表現力。
それは、きっとブラームス(シェーンベルク編曲)のピアノ四重奏曲第1番のオーケストラ版に通じるものがあるのではないかと思って、特にこの後半のブラームスにとても期待していました。
実際、前半のシューマンよりは各段に良かったとは思います。
前半、不自然にしぼりこまれていたオーケストラの音量も、やや開放されました。
おそらく、ロマン派中期のシューマンと、シェーンベルクが手を入れた後期ロマン派ブラームスとの対比なのでしょう。
アンサンブルの精度はさすがのものでしたし、ブラームスらしい音の濃密さも聴こえてきました。
フィナーレのコーダでは、凄まじいアッチェレランドが聴こえてきて、そこは一瞬鳥肌がたちましたが、でも、おおよそ予定調和的な範囲内の演奏でおわってしまいました。
盛んな拍手で、カーテンコールもあったようです。
でも、スダーンという指揮者の表現力は、こんなものではないんです。
彼のプラスアルファの音楽が聴かれないまま、コンサートが無事に終わってしまったことが、ほんとうに残念でたまりませんでした。
東京交響楽団の失速
今シーズン、東京交響楽団を何度も聴きに行きましたが、やはり、昨シーズンまでの充実ぶりとくらべると、失速感が否めません。
今回の公演でも、音が客席にいまいち届いてこなかったり、フォルテのところで木管楽器がヒステリックに響いてきたりと、やはり、昨シーズンまでなら考えられないような箇所が散見されました。
この前聴いたジョナサン・ノット指揮のベートーヴェンでは、復調の兆しが聴かれたのですが、やはり、そう簡単にはいかないようです。
東京交響楽団は、大好きな楽団です。
日本のオーケストラのなかで、いま、いちばん好きなオーケストラです。
これまで、日本のオーケストラをこれほど連続で聴きに行ったことはありません。
「冬来たりなば春遠からじ」であってほしいです。
気がかりな「音楽批評」
普段は、すばらしかったコンサートのレビュー以外は書かないことにしているのですが、この公演はブログで強く推していましたし、もしかしたら、それを読んで会場に足をはこんでくださった方もいらっしゃるかもしれないと思い、贖罪の気持ちもあって色々とつづってみました。
予想通りとはいかず、申し訳ない気持ちです。
それと、最近ちょっと気になるのは、今年の秋は著名な海外オーケストラが押し寄せて来日公演をしていましたが、一様にほめそやす記事ばかりが上がっていて、批評的な記事がほとんど見られなかったことです。
私が言っているのはSNSなどでのことではなく、新聞や雑誌などのマスメディアに出た記事のことです。
以前の音楽評論家の方たちは、たとえばアッバードがベルリン・フィルを連れてきていたときなど、称賛だけでなく、批判的な指摘もたくさんしていました。
攻撃をする必要はないのですが、異論をはさんだり、建設的な批判があったりするほうが、ほんとうの音楽批評のあるべき姿だとも思います。
今回のように満たされなかった公演についても、やはりつづっていく必要があるのかなと、自分自身についても、ちょっと考え直しているところです。
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