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この記事の全文は、noteに有料で掲載しています。
2025年の年末、ジョナサン・ノットが音楽監督として最後の「第九」公演を行いました。
ファースト・ヴァイオリンがたったの8人。
最後の最後まで“ 攻めの姿勢 ”をつらぬいた、いかにもノットらしい公演について綴ります。
今回も、ノット&東京都交響楽団の第九公演は2日間に渡って行われましたが、ここに書く印象は初日のものです。
さらに、これまでに私が聴いた、過去の「ノットの第九」もふりかえってみようと思います。
ジョナサン・ノット(指揮)東京交響楽団
ベートーヴェン交響曲第9番「合唱つき」
2025年公演
2019年からずっと、東京交響楽団の年末の「第九」を指揮しつづけた音楽監督ジョナサン・ノット。
外国人指揮者で、これほど連続して、日本独特の文化である「年末の第九」を指揮してくれた指揮者は、ほかにいないのではないでしょうか。
毎年連続で指揮しても、毎回アプローチが大胆にちがっていたのがジョナサン・ノットの第九。
今回の新機軸は、ファースト・ヴァイオリンが8人、コントラバスが4人という、しぼりにしぼった編成のオーケストラが組まれた点でした。
合唱団はオーケストラのうしろ、同じステージ上に配置され、総じて、小ぶりにまとまった編成。
ノットは、ハイドンやモーツァルトを指揮しても、古楽アプローチ的、小編成のオーケストラを駆使するのを好んでいるので、それをつきつめてみた結果の編成、ということになるのでしょう。
第1楽章
編成は小さくなっても、音楽は小さくしないのがジョナサン・ノット。
この第九でも、第1楽章から速めのテンポでたたみかけます。
アグレッシブで、精力的なベートーヴェン像は、今回も顕著でした。
ただ、そのなかに若干のゆるさが見られた、というか、オーケストラの自発性にゆだねるような姿勢も散見されて、以前ほど表現が徹底されていないように聴こえました。
良く言えば、演奏のはしばしに、どこか“ 円満 ”な感覚が漂っていました。
それゆえに、編成を切り詰めたオーケストラの出す音の鋭さと、実際の表現の緩さとのあいだに、解決されない齟齬が生じてしまって、やや中途半端な印象はぬぐいきれません。
小編成で響きが持続しない分、音楽はどうしても前倒しになり、作品の構造、楽節の折り目がいまひとつ伝わってこなかったのも惜しい気がしました。
第2楽章と第3楽章
それでも、第2楽章、とくに前半に新鮮な躍動があって、その足取りの軽さには、小ぶりな編成が功を奏していました。
そして、これは毎回ですが、この楽章で細かくテンポを千変万化させるのがノット風アプローチ。
ただ、やはりこのアプローチだと、トリオの存在感が弱まるというか、終楽章の歓喜の歌を予告しているであろうトリオの旋律が、ほかの要素と並列に聴こえてきてしまい、面白い面もあるけれど、この解釈には毎回疑問が残ります。
第3楽章も、やはり速めのテンポ。
ここは今回の演奏にただよう“ 円満 ”な表情が音楽に奥行をあたえ、美しい抒情が聴かれました。
ふと、2021年公演で目頭が熱くなったときのことも思い出しました。
ただ、そうなると、今回の編成の小ささ、とくに弦が少ないことから来る響きの薄さはやはり悔やまれて、音楽が高揚すればするほど、どこか満たされない、歯がゆい感覚が残りました。
もし、このままの調子で終わっていたら、ざわざわブログ記事にはしなかったのですが、第4楽章で、演奏の印象が一気に反転しました。
ノット&東京交響楽団の最後の「第九」がたどり着いた場所。
それについては、noteの有料部分をご覧ください。
第4楽章、その幸福な帰結
あまり間を置かずに突入した第4楽章。
これまでの楽章がエピソード風に回想され、否定され、やがて、あの“ 歓喜の歌 ”の旋律がしずかに姿をあらわすというドラマがあるわけですが、やはり編成の小ささから、どうしても強奏時は金管とティンパニばかりが突出してしまい、“ 歓喜の歌 ”の旋律も、弦が少ないだけに、もう少しのドラマと音楽的な広がりがほしい、そんな風に感じられました。
つまりは、第1楽章から終楽章前半にかけて、ノットの小編成アプローチが、私にはざまざまな不満を感じさせることのほうが多く、今回の新機軸は、いまひとつ、しっくりとこないものに感じられていました。
ところが、声楽が入ってきた途端、状況が一変します。
( ..)φ
ジョナサン・ノットと東京交響楽団による年末の「第九」を2019年から振り返った「特集ページ」をブログ内にも作っています。














