この記事は2022年2月24日に投稿していますが、ベートーヴェンの『ウエリントンの勝利』という、俗に「戦争交響曲」と呼ばれることもある音楽を紹介しようとしていたまさに今日、信じられないことにロシアがウクライナに軍事侵攻を始めてしまいました。
わたしは今も昔も戦争に反対です。
ここにご紹介する音楽は、大作曲家ベートーヴェンの多くの作品のなかで現在はその評価がかなり低い、『ウエリントンの勝利、あるいはビクトリアの戦い 作品91』ですが、よく言われている通り、ベートーヴェンの生前は最大のヒット作のひとつでした。
歴史的背景はあとでご紹介しますが、誤解のないように冒頭に書いておきたいことは、ベートーヴェンは平和主義者だったということです。
ただ、彼は確かに、この曲を書きました。
ナポレオンの暴走によって大混乱に陥っていたヨーロッパの状況に、ナポレオンの敗北というひとつの出口が見えたことへの高揚感が、きっと彼にこうした作品を書かせたんでしょう。
彼が根っからの平和主義者であったことは、この『ウエリントンの勝利』の10年ほどあとに書かれ、彼が自身の最高傑作とした『ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲) ニ長調』ではっきりと示されます。
その壮麗なミサ曲のクライマックスには、平和を希求する歌が置かれています。
途中、戦争を連想させる音楽が急に割って入ってきて、さらにその不穏な響きを、平和を希求する音楽で凌駕していくというドラマも展開されます。
それに比べると、この演奏時間が15分程度の『ウエリントンの勝利』は、あまりにエンターテイメントな側面がつよく、あまりに稚拙な面が目立つといってもいいかもしれない音楽です。
おそらくそのせいで、現在ではほとんど演奏されず、たまに思い出されたかのようにレコーディングされたりする程度なのでしょう。
楽聖ベートーヴェンにもこうした作品があるということ。
そして、戦争というのは、こうした音楽を書かせてしまうものだということでしょう。
今回は、このベートーヴェンの異色の作品をテーマにご紹介していきます。
目次(押すとジャンプします)
ナポレオンの没落
交響曲第3番『英雄』でも大きく話題になるフランスの英雄ナポレオンは、ヨーロッパ全土に衝撃を与えた存在でした。
多くの学者さんが人類史上最大の革命としているフランス革命のなかから登場したこの英雄は、一市民であったにもかかわらず、ついには「皇帝」となり、ヨーロッパの大半を支配下に置いて、熱狂と大混乱を巻き起こしていました。
ただ、チャイコフスキーの序曲『1812年』にあるように、ロシア遠征での大敗をきっかけにナポレオンの没落が始まります。
翌1813年には、今度はスペインでの戦争で、ウエリントン公爵率いるイギリス軍がフランス軍を破ります。
ベートーヴェンが活躍していたオーストリアは、フランスと対立する連合国側だったので、このニュースは大きな喜びで迎えられました。
そして、そのウエリントン公爵の勝利を讃える音楽を書いてほしいと依頼され、ベートーヴェンが書き上げたのが『ウエリントンの勝利』です。
戦争交響曲
その依頼をしてきたのは、メトロノームの発明家メルツェル。
彼が発明した、軍楽隊の楽器を色々と自動演奏する大型楽器「パンハルモニコン」のために作曲してほしいという依頼でしたが、結局、オーケストラ版も作曲されることになりました。
そのオーケストラ版は、イギリス軍を表す楽隊とフランス軍を表す楽隊が左右にわかれて舞台上で音楽合戦をするような書かれ方をしていて、最後にはイギリス国家が鳴り響いて終わります。
そうした見た目にもスペクタクルな効果が大いに受けて、この曲はベートーヴェンの作品のなかでも、屈指の大ヒットとなります。
そして、こうした内容のために、しばしば「戦争交響曲」というニックネームで呼ばれます。
豪華な初演メンバー
この曲は1813年12月8日、ウィーン大学の講堂でおこなわれた戦争負傷兵のための慈善コンサートで初演されました。
ベートーヴェンは当時42歳です。
この日はコンサート前半に『ウエリントンの勝利』、後半には交響曲第7番イ長調が初演されるという、音楽史上に残る一日でした。
さらには、そうした慈善演奏会だったせいか、コンサートマスターにシュパンツィヒ、大太鼓を作曲家のフンメル、大砲の一斉射撃の指揮はサリエリが行うという豪華メンバーによる初演となりました。
シュパンツィヒはベートーヴェンより6歳下のヴァイオリンの名手で、ベートーヴェンのヴァイオリンの師でもある人。
このふたりは良き友人でもあって、特にベートーヴェンが晩年、弦楽四重奏曲の世界にのめり込んでいったことに大きく貢献した人物としても、ベートーヴェンの音楽には欠かせない人です。
フンメルは、トランペット協奏曲などで有名な作曲家。
現在は地味な存在の作曲家ですが、生前は大作曲家として君臨していました。
たいへんな経歴の人で、子どもの頃はあのモーツァルトの家に住み込みでピアノを習って、サリエリにも師事。
ハイドンにも師事して、ハイドンがエステルハージの楽長を辞した後は、彼がその地位を引き継いでいました。
現在は地味な存在という点ではサリエリこそまさにそれで、生前は音楽界の頂点に立っているような大作曲家でした。
ベートーヴェンもシューベルトもリストも、みんな彼に師事しています。
現代では映画『アマデウス』でモーツァルトを毒殺した作曲家として登場して有名ですが、毒殺はあくまで当時のスキャンダラスな噂で、そうした事実があったとは立証されていません。
そして、オーケストラの指揮は作曲者ベートーヴェン自身。
当時の大物音楽家がたくさん集まった、まったく豪華なコンサートとなりました。
🔰初めての『ウエリントンの勝利』
この曲にはイギリス歌とフランス歌が使われているので、もともとの素材を知っておきましょう。
素材を知ってしまうと、いかにこの音楽がひたすらにわかりやすく、大衆向けに喜ばれるように書かれたのかがわかります。
まずは音楽が始まってドラムロールと進軍ラッパのあと1分ほどで現れるイギリスの歌『ルール・ブリタニア』。
これは、愛国歌というべきもので、現在もイギリスで夏に行われる音楽祭「プロムス」の最終日に聴衆もいっしょに大合唱する音楽です。
ここでは、そのプロムスの公式動画でご紹介します。
やがて、舞台の反対側でドラムロールと進軍ラッパが鳴り響いて、今度はフランス軍の登場です。
音楽が始まって3分ちょっとくらいで現れるのがフランス民謡『マールボロは戦場に行った』です。
これがなかなか癖のある民謡で、マールボロというのは、フランスではなくイギリスの軍人の名前。
そのイギリスのマールボロ将軍が戦死したという知らせを奥さんが伝え聞いている情景を歌ったもの。
つまり、敵国イギリスのリーダーの戦死とその死を嘆く奥さんの姿をフランス人がからかっている歌です。
ところが聴いてみると、そうした皮肉・残酷さを微塵も感じさせないとても親しみやすい旋律で、あのマリー・アントワネットやナポレオンも好んで口ずさんでいたという歌。
題材がイギリスとフランスですから、まさにこの『ウエリントンの勝利』にうってつけの歌詞ということで、この曲に採用されたんでしょう。
さて、音楽はそれから戦闘シーンに入って、銃声が鳴り響いたり、大砲や大太鼓がとどろいたりします。
やがて、音楽が静かになるとフランス民謡『マールボロは戦場に行った』が短調で弱々しく演奏されて、フランス軍がみじめに退却する場面が描かれます。
そのあと音楽はいっきに明るさを取り戻して、勝利の場面へ。
そして、おごそかにイギリス国歌『神よ女王陛下を守り給え』が現れて、イギリスの勝利をたたえるがつづきます。
では、そのイギリス国歌“ God Save the Queen ”を。
私のお気に入り
この曲はベートーヴェンの生前は代表作として人気作品でしたが、現在では評価が急降下していて、ほとんどレコーディングもされません。
ベートーヴェンを得意とする指揮者たちですら、この曲はやらないという人がほとんどです。
こうした曲を聴くといつも思うのは、この当時の戦争の描き方というのが、現代ほど残酷ではないということ。
同じ「戦争」を題材としたものでも、例えば20世紀のショスタコーヴィチの交響曲第7番『レニングラード』や第8番ハ短調、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲第5番、もしくは、ペンデレツキの『広島の犠牲者に捧げる哀歌』などと比べてみると、その差はいったい何なんだろうと考えずにはいられません。
《ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セントマーティン・イン・ザ・フィールズ》
マリナー(1924-2016)によるこのアルバムは、おそらく初演時のことを意識して、交響曲第7番をカプリングしています。
『ウエリントンの勝利』では銃声や大砲の音だけでなく、鳥の鳴き声による戦の前の情景からはじまって、馬のひづめの音、それに戦いの前に一度だけ兵士たちのかけ声を入れたりと効果音を工夫、より情景が浮かびやすくなるようにしています。
こうしたところは、まるで映画のサントラ盤のよう。
ただ、それがやりすぎにならないぎりぎりの線を上手にねらっていて、一定の節度をもって行われていることに、この録音の価値があります。
そのうえで、何といっても意外なほどに演奏そのものが格調高くなっていて、イギリス人指揮者とイギリスのオーケストラということで、誇りのようなものすら感じさせて、とっても聴きどころの多い演奏になっています。
これはこの曲の数少ない「名演奏」として記憶されていいものだと思っています。
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《ヘルマン・シェルヘン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団》
シェルヘン(1891-1966)はドイツ出身の作曲家・指揮者。
革新的な音楽を好んで、現代音楽の分野でとくに果敢な挑戦をおこないました。
マーラーに素晴らしい演奏が多いほか、ベートーヴェン演奏も面白いものが多くて、晩年にルガーノ放送交響楽団とおこなった全曲演奏はとくに示唆に富んでいて、わたしも好きな録音です。
このウエリントンの勝利の演奏は、ウィーン国立歌劇場管弦楽団を指揮したもので、明解な音楽づくりが聴かれる立派なものです。
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NO MORE WAR.