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晩年のカラヤン(Herbert von Karajan, 1908-1989)が手兵のベルリン・フィルと関係がこじれ、ウィーン・フィルとの共演が急に増えたとき、あるウィーン・フィルの若い団員は「これは自分の一生の財産になる、貴重な機会がめぐってきているんだ」と感じたそうです。
私は、ムーティのここ数年の上野での公演を、それと同じような心持ちで聴きに行くようになっています。
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リッカルド・ムーティ指揮のヴェルディ:歌劇「アイーダ」演奏会形式
「前奏曲」の語るところ
分割されたファースト・ヴァイオリンによる、繊細極まりない高音にはじまる「アイーダ」の前奏曲。
弱音で絡みあう旋律の綾を聴いていると、不意に、ワーグナーの「ローエングリン」第1幕への前奏曲が脳裏をよぎります。
「ローエングリン」のほうが20年も前に作曲されているので、ヴェルディがそこから多少なり影響を受けたのか。
その実際のところはわかりませんが、これまで何度もこの前奏曲を耳にしているのに、こうした印象をはじめて与えられたということ、そこに、この公演の意義がはっきりと示されていたように思いました。
「モーツァルトやシュトラウス、ワーグナーなどのドイツ・オペラでは、作曲家への敬意が最大限に払われるのに、イタリア・オペラとなると歌手のショーになってしまう。ヴェルディやプッチーニの書いた音符に対しても、同等に、最大限の敬意が払われてしかるべきだ」というのが、一貫してムーティが主張していることです。
ムーティの描く「アイーダ」前奏曲が、「ローエングリン」を想起させたというのは、きっと、その姿勢のもたらしたものであって、他の指揮者たちがドイツ・オペラでみせる精妙さでもって、ムーティがヴェルディの書いた音符を描きだしているということの表れでした。
「凱旋行進曲」がクライマックスであってはならない
歌劇「アイーダ」というのは、何といっても第2幕の凱旋行進曲が有名なのであって、第1幕のドラマが第2幕の凱旋行進曲でひとつのクライマックスに達して、けれども、それ以降の第3幕と第4幕が「あとの祭り」のようにしぼんでしまう上演が少なくないと思います。
ムーティは「アイーダ」について、「室内楽の要素が強いオペラ」と語っていて、「オーケストラも重厚というよりも、モーツァルトやシューベルトに近い」とインタビューで述べています。
➡東京春音楽祭公式サイト「対談 vol.10 リッカルド・ムーティ(指揮)×鈴木幸一」
その言葉通り、前半にクライマックスが来ないように、ムーティは極度の抑制をかけて指揮をしていました。
とにかく、オーケストラをおさえる手の動きが多く、あるときは金管にむけて、あるときは合唱にむけて、何度も何度も音量をおさえる動きをみせていました。
第1幕が抑制と均衡のなかに幕となり、休憩時間をはさんで、第2幕がはじまったとき、私は長大な交響曲の第2楽章“ スケルツォ ”を聴き始めたような感覚がしました。
そして、第2幕の前半には、あの有名な凱旋行進曲があります。
第2幕が交響曲での第2楽章に位置するとしたら、ここにに音楽の頂点が来るのは早すぎるということになります。
当然、ムーティはそれを避けて、第3楽章(第3幕)以降にクライマックスをもっていくはずです。
実際、やがて始まった、有名な凱旋行進曲の場面は、冒頭の有名なファンファーレから、強く“ 抑制 ”されていました。
こんなに抑えに抑える凱旋行進曲は初めて耳にするものです。
音量や勢いではなく、抑揚やフレージングで聴かせる、純音楽的な「アイーダ大行進曲」とでも言うべきでしょうか。
ムーティは、不完全燃焼にならない、ぎりぎりのラインで、この名場面を丁寧に、格調高く描いていきます。
高揚することはあっても、興奮はさせないアプローチが守り抜かれます。
こうすることで、ムーティは、彼の狙いどおり、音楽の比重を後半の第3幕や第4幕へと移すことに成功していました。
抑制のアイーダが失うもの
もちろん、ムーティの極度に抑制を効かせるアプローチは、ある種の欲求不満を感じさせる場面があったのも事実です。
アメリカの名歌手バーバラ・ボニーは、ずっと昔のことですが、ある雑誌のインタビューで「ムーティの指揮では二度と歌いたくありません。彼はオペラを交響曲のようにしてしまうからです」と述べていて、読んで驚いた記憶があります。
この日の歌手では、おそらくラダメス役を歌った歌手がそうで、ムーティの解釈に納得できない、という歌いぶりでした。
声にはパヴァロッティを思わせる輝きがあり、きっと素晴らしい歌手なのだと思いましたが、仕方なくムーティにあわせているという様子で、ラダメスという役柄への共感はほとんど感じられない、表面的な歌いぶりに終始しました。
また、アイーダ役の歌手はどこか線が細く、結果、主役のふたりの歌手の存在感がうすい、という難しい上演になりました。
むしろ、ムーティのヴェルディ観のなかで、最大限の歌いぶりを示したアムネリス役のユリア・マトーチュキナ( Yulia Matochkina )という歌手がもっとも印象的で、カーテンコールでも、アイーダ役やラダメス役をしのぐ、爆発的な歓呼、拍手喝采を受けていました。
抑制のアイーダがもたらすもの
そこまでして守り抜かれる「抑制」によって、ムーティは何を志向していたのか。
ひとつは、ヴェルディの書いたスコアの美しさを、はっきりと示すことだったと思います。
実際、この上演ではじめて気づいた美しい和音が随所にありました。
その意味でも、日本の若手音楽家で結成される「東京春祭オーケストラ」のはたした役割は非常に大きいもので、この公演の成功のおおきな鍵をにぎっていました。
ムーティが彼らと描き出す「響き」は、あらゆる場面のあらゆる瞬間、ヴェルディがスコアに書いたすべての音が美しいのだ、ということを証明していました。
あのとき、“ 世界でもっとも美しいアイーダ ”が上野に響いていた、といって何の誇張もないと思います。
それから、こと「アイーダ」という作品について、ムーティは「室内楽的美しさ」を実現したかったのだと思います。
そのためには、第2幕の凱旋行進曲が目立ち過ぎてはいけないわけです。
実際、第3幕、第4幕と進んでいくほどに、音楽の純度は高まっていきました。
おしまいの、生き埋めにされたアイーダとラダメス、そして、ラダメスの救済を地上で祈るアムネリスの三重唱の静謐さは、言葉にならないほどの“ 神聖さ ”を帯びていました。
台詞のとおり、天国の扉が彼らの頭上に開いていくのが、目に見えるようだったほどです。
音楽的な頂点は、凱旋行進曲ではなく、この静かな終幕にこそある、というのがムーティの至高した「アイーダ」であり、実際、私はあの到達点に響いた音楽にとても強く打たれました。
そして、これは偶然の産物かもしれませんが、アムネリス役のユリア・マトーチュキナが非常に印象的だったせいで、普段の上演よりもアムネリスの悲しみがずっと強く感じられました。
アイーダやラダメスだけが悲しいわけではない、アムネリスもまた“ どこまでも純粋に ”悲しいのだと、痛切に感じられました。
このオペラは、誰にとってもまぎれもない「悲劇」なんだと、そして、それが天国による救済という、愛に帰結する物語なのだと、悲しいまでに美しいハーモニーに包まれながら教えられました。
トスカニーニという指標
公演の翌日になっても「アイーダ」の響きがずっと頭から離れず、そこで、ムーティが若き日に録音した「アイーダ」(1974年録音)を聴いてみることにしました。
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これは「アイーダ」の代表的な録音のひとつとして有名な録音ですが、ただ、ここで聴ける「アイーダ」は、上野で聴いたものに比べると、はるかに通常の「アイーダ」に近いというか、ドラマティックで、とてもオペラティックなものです。
不思議と何か満たされない思いがしてしまい、そこで次に、ムーティがよく理想的なヴェルディ演奏として例に挙げる、アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867-1957)の古い録音を聴いてみることにしました。
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第1幕を聴き始めてすぐ、「あ、これだったんだ」と思いました。
このトスカニーニの古い録音には、上野で体験した、あの音楽的な「静けさ」、ハーモニーの「調和」が確かに刻まれています。
トスカニーニは、いっぽうで非常に強烈で、直情的な一面も持っていますから、凱旋行進曲などははっきりと迫力をもって描ききっていて、そこはムーティと明らかに違っているところです。
ムーティは、トスカニーニと比べると、もっとずっとロマンティックな表現、和声的な音づくりに執心していました。
ただ、ムーティの現在の演奏が、若き日のものを離れ、トスカニーニの演奏にちかづいているというのは、とても興味深いことです。
「イタリア・オペラのあるべき姿を後世に伝えたい」という彼の想いは、はっきりと王道を歩んでいるのでしょう。
一生の財産
ムーティ、82歳。
第1回イタリア・オペラ・アカデミーで、ムーティは「私は自分の先生たちから教えていただいたこと、世界中で指揮した素晴らしいオーケストラ、歌手、演奏家たちとの共演から得た経験によって学び、身につけたことを、私が消え去るとともに失わせてはならないと思うようになりました」と述べています。
その真摯で重い言葉を、私は私なりに受け止めて、今年2024年の春も上野に足を運びました。
ここ数年、東京春音楽祭のおかげて、連続してムーティを聴く機会を得ていますが、とりわけ、昨年の「仮面舞踏会」の圧倒的な演奏を耳にして、いっそう、今現在のムーティを聴けることの幸運、僥倖にこころの底から感謝しています。
うれしいことに、ムーティは今年の秋も再度来日、今度はヴェルディ:歌劇「アッティラ」を指揮することが決まったそうです。
ステージ上のムーティは、客席から見る限り、年齢をまったく感じさせない若々しい指揮ぶりですが、そうは言っても、80歳代。
これから何度日本を訪れてくださるのかわかりませんが、彼が伝えようとしていること、残そうとしているものを、自分なりに一生懸命受けとっていきたい思いです。
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