目次(押すとジャンプします)
初演時のエピソード
現在はオーケストラ・コンサートで聴くことの多い『ボレロ』ですが、もともとはバレエのための音楽。そのバレエ『ボレロ』が1928年11月22日にパリ・オペラ座で初演されたとき、このバレエを理解できなかった一人の老女が「どうかしてるわ!」と叫んだという逸話が残っています。
その老女の話をあとで伝え聞いた作曲者ラヴェルは、「その女性こそ、あの日、あの音楽をいちばん理解した女性だね」と語ったそうです。つまり、たったひとつのリズムを169回繰り返し、その上でたった一組の旋律をひたすら繰り返す、作曲者自身「変化の要素はただひとつ、オーケストラのクレッシェンドだけ」と語っている通りで、これは実際、前代未聞といっていいバレエ音楽だったわけです。
このバレエはロシア出身の女性ダンサー、イダ・ルビンシュテインが自身のバレエ団を創設するにあたって、ラヴェルに委嘱したもの。このときには、ロシアの大作曲家ストラヴィンスキーにも新作が依頼されていて、この『ボレロ』の初演から5日後、チャイコフスキーの音楽を基にしたストラヴィンスキーによるバレエ『妖精の口づけ』が初演されています。
オーケストラ泣かせの名曲
ラヴェル本人はこの作品について、作品のもつ特殊な性格から、一流のオーケストラはきっと演奏を拒否するだろうと予想していたようです。ところが、この音楽を依頼したバレエ団の主催者イダ・ルビンシュテインの1年間の上演独占権が期限切れをむかえると、たちまち世界中のオーケストラがレパートリーに加えはじめます。これにはラヴェルもとても驚いたそうです。
何といってもこの曲はソロの連続。その意味でオーケストラ泣かせの名曲というか、どうしてもソロのうまい奏者が必要ですし、腕の立つ奏者が集まった楽団がプライドをかけて全力で演奏したくなる音楽になっています。その点で、音楽の内容もさることながら、演奏者を情熱に駆り立てるというプラスアルファの側面を内包した音楽です。
音楽評論家の黒田恭一(1938-2009)さんが、ザルツブルクで晩年のカラヤン指揮ベルリン・フィルがこの曲を演奏したのを聴いた話をラジオでなさっていたときがあって、そのときのプログラムが前半にドヴォルザークの交響曲第9番『新世界から』、そして後半が何とラヴェルの『ボレロ』1曲だけだったそうです。いくら何でも後半のプログラムが短すぎると不満に思いながらコンサートへ出かけて行ったそうですが、とんでもない。後半の『ボレロ』、カラヤンとベルリン・フィルの「湯気がたちのぼっているような」圧倒的な演奏に心から感動しきって帰ってきたんだそうです。
まさに『ボレロ』だからこそ成り立つ話で、この音楽はそうした、他の曲には代えがたい、異常な高まりを生む音楽になっています。
1984年のスケート
私は以前記事にしたベルリン・フィルのピクニックコンサートで、フランスの名指揮者ジョルジュ・プレートルが指揮したときに聴いた『ボレロ』がどうしても忘れられないですし、あれが人生で初めてボレロを聴いた瞬間だと思っていたんですが、今回記事を書いているうちに、もっと子どもの頃、1984年のサラエボ・オリンピックのアイスダンスで、イギリスのペアが『ボレロ』の音楽で金メダルをとったのをテレビで見たのを思い出しました。審査員全員が芸術点で満点をつけたということで、たいへんな評判を呼びました。
私のお気に入り
1984年のサラエボ・オリンピックのアイスダンスで、イギリスのジェーン・トービルとクリストファー・ディーンのペアが『ボレロ』の音楽で金メダルをとった映像ですが、探したら公式に映像が配信されていました。子どもの頃に見ていてもすごいと思いましたが、久しぶりに今回見てやはり凄いです。もはや競技ではなく、芸術の5分間。
黒田恭一さんが聴いたというヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルの録音。カラヤンとベルリン・フィルのようなコンビにとって、この曲は十八番といってもいい、その実力を発揮するのにうってつけの音楽。録音も数種類残っていて、それぞれに違っていて、それぞれに立派な演奏。ここでは黒田恭一さんがエピソードで話していた頃に近い、晩年のカラヤンが録音したものを。このコンビは映像も残していて、そちらも当時のベルリン・フィルの圧倒的な演奏を味わうことができて大好きです。( Apple Music↓・Amazon Music・Spotify・Line Music などで聴けます)
腕利きが集まっているという点では、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の録音も面白いです。その自信たっぷりなソロの連続と明るい音色、どこか余裕しゃくしゃくという感じで熱狂が高まっていきます。このコンビの円満な音楽を印象付ける記録。
一度聴いただけで忘れられなくなったのが、シャルル・ミュンシュ指揮パリ管弦楽団の録音。ちょっと不気味な足どりで、何か含みのある、ゆっくりとした歩みで始まります。ただ遅いのではなくて、嵐の前の静けさを感じさせるような、何かがもう爆発しそうなのを息をのんで見つめているような緊張感が漂います。各楽器のソロもすごく妖艶できれい。そして、気づいたころには熱狂の嵐。「たったひとつのクレッシェンド」というのをここまで実感させてくれる演奏はそうはありません。最晩年のシャルル・ミュンシュが残した巨大な芸術。音だけで聴くなら、私はこれが今もいちばん好きです。( Apple Music↓・Amazon Music・Spotify・Line Music などで聴けます)
ジャン・マルティノン指揮パリ管弦楽団は、いつもの明るい音色とラテン的な開放感あふれる演奏。この指揮者はフランス的なのに、くっきりとした色彩感がおもしろいです。その抜けるような音色をたのしみたいときに手に取るアルバム。( Apple Music↓・Amazon Music・Spotify・Line Music などで聴けます)
クラウディオ・アッバード指揮ロンドン交響楽団の演奏は、最後の最後に弦楽セクションの団員たちの雄たけびが入っていることで有名です。これはアッバードがミラノのスカラ座のオーケストラとこの曲をやるときに恒例にしていたものらしく、このロンドン交響楽団との録音でもわざわざ「雄たけび有り」と「雄たけび無し」の2パターンを録音してみて、最終的にアッバードが「雄たけび有り」のほうを選んだそうです。こうしたところは、いつも紳士的だった彼がイタリア人だったことを思い出させてくれる楽しいエピソード。でも、わざわざ2パターン録音したあたりはやっぱり真面目です。( Apple Music↓・Amazon Music・Spotify・Line Music などで聴けます)
ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルは後半、音楽が大詰めを迎えるところで、数か所テンポが急にゆれ動きます。テンポの変化がないのが特徴の音楽なのに、あえてテンポを動かしてしまうという禁じ手をやってみせたマゼールの役者ぶりに、思わず笑みがこぼれる演奏。頑固なウィーン・フィルが、よく嫌がらなかったと感心。嫌がったかもしれませんけど。( Apple Music↓・Amazon Music・Spotify・Line Music などで聴けます)
フェレンツ・フリッチャイ指揮南西ドイツ放送交響楽団は、1955年のライヴ録音。フェレンツ・フリッチャイ(1914-1963)はハンガリー出身の名指揮者。大活躍していたものの、白血病で48歳で亡くなってしまいました。このライブは白血病になる前の元気なころの演奏。熱気あふれる、ボレロのライヴを聴く楽しみが味わえます。
ライヴ録音では、他に当時89歳のポール・パレーがフランス国立管弦楽団を指揮した演奏。これは以前に別記事でご紹介したものですが、そのテンポの速さもあって強く印象に残ります。
といった感じで、この曲は名演奏や名録音が山積みです。世界中のオーケストラがプライドをかけて録音する曲で、とてもここに書ききれるような数ではありません。いろいろな録音があって楽しみが尽きないとも言えます。
そして、この曲は、とりわけ生演奏、ライヴで体験するのをお薦めしたい音楽の代表格です。音楽家たちが全力を注いで演奏する『ボレロ』は、それがうまくいったときには、忘れがたい体験になります。ラヴェルはやっぱり、とんでもない音楽を生み出したわけです。