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大学の授業のおもいで
Shall I compare thee to a summer’s day?
君の美しさを何にたとえたらいいだろう。そう、君はまさに“ 夏の一日 ”のように美しい。
(シェイクスピア)
大学の英文学の授業で、冒頭、教授から「さて、みなさん、シェイクスピアは恋愛詩において、恋人のうつくしさをいったい何に例えたでしょうか?」という質問がありました。
ここで「花」だの「太陽」だのと言っていたら、文学史に名前は残らないのだと教授はおっしゃいました。
教授曰く、天才シェイクスピアは恋人の美しさを「夏の一日」と言ったそうです。
イギリスの夏というのは、日本で言えば、初夏の、5月ごろの爽やかな季節。
恋する人の美しさをたたえるときに、「夏の一日」という例えが出てきたところに、シェイクスピアの天才的な言葉のセンスがあるのだと。
ああいう何気ない話ほど、意外と忘れられないものです。
たしかに、未だに「夏の一日」を超える表現には出会ったことがありません。
夏がやってくると、わたしはこの話を思い出すと同時に、どういうわけか、こちらも同じくイギリス出身の名物指揮者、“ イギリス最後の偉大な変人 ”とたたえられたサー・トマス・ビーチャム(1879-1961)の録音が聴きたくなります。
ビーチャムのすっきりとした音楽のスタイル、軽くて爽快で、澄んだ音づくりが、初夏を吹き抜ける風を思わせるからでしょうか。
洒落ものだったビーチャムには、短いオーケストラ作品を集めた小粋な小品集がいくつもあります。
今回は、そうしたオーケストラの名曲集をお届けします。
小品というのは、気軽に取り上げる演奏家も多いですが、実は短い時間のなかでひとつの世界を作らなければならないものなので、音楽史に残るような名演奏となると数がぐっと限られます。
小品を“ 聴かせる ”のは、実はとても大変なことです。
今回はそれが出来た数少ない指揮者のひとり、ビーチャムによる小品集で、文字通り音楽を“ 楽しみ ”たいと思います。
短めの作品をゆったりと楽しみたいときに、是非、聴いていただきたいアルバムをいくつかご紹介していきます。
ただ、残念なことに、ビーチャムのこうした名曲アルバムは、どのオンライン配信も扱いがおおざっぱで、とにかく適当です。
なかなかアルバム自体が検索にひっかからないうえに(なぜかApple Musicではほとんどひっかかりませんでした)、曲目や作曲者があべこべに入力されているものも散見されます。
だんだんと修正されていくことを期待したいと思います。
このブログでは、オンライン配信の音源を中心にいろいろとご紹介しています。
クラシック音楽のオンライン配信については、「クラシック音楽をオンライン(サブスク定額制)で楽しむ~音楽好きが実際に使ってみました~」という記事にまとめています。
My Favorite Overtures『お気に入りの序曲集』
- 『泥棒かささぎ』序曲(ロッシーニ)
- 『真夏の夜の夢』序曲(メンデルスゾーン)
- 『結婚手形』序曲(ロッシーニ)
- 『美しいメルジーネの物語』序曲(メンデルスゾーン)
- 序曲『海賊』(ベルリオーズ)
( Apple Music:見つかりません… ・ Amazon Music↑ ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)
聴きはじめていきなり、1曲目でびっくりさせられます。
ロッシーニの『泥棒かささぎ』序曲の冒頭、あるはずのドラムロールが丸々カットされていて、盛大にオーケストラから始まります。
これ、確認しましたが、ビーチャムのアイディアではなく、配信での編集ミスのようです。
CDを手に入れてみたところ、しっかりドラムロールが入っていました。
ただ、ここが面白いのが、仮にほかの指揮者でそうした編集ミスがあったら、すぐにでも聴くのをやめたくなるところなのに、ビーチャムのアルバムだと思うと、そういうところもまた、どこか愉快な気持ちにさせられてしまうところです。
甘やかしすぎでしょうか。
それにしても多彩な表現にあふれた名演奏です。
トライアングルの叩かせ方ひとつにしても、とてもチャーミング。
前半のキビキビした合奏も素晴らしいですが、とりわけ後半の、いわゆる“ ロッシーニ・クレッシェンド ”(ロッシーニ特有の書法で、同じメロディーをクレッシェンドしながら何度も何度も繰り返すもの)のくだりに入る前の、静かな管と弦のやり取りなど、本当にやわらかく音楽的でニュアンスに富んでいます。
それだからこそ、いっそう、ロッシーニ・クレッシェンドが活き活きとしてきます。
ビーチャムが指揮すると、この短い序曲のなかでも、さまざまな物語がきらめきます。
まさに短い時間のなかで、完全に物語を描き切っている名演奏です。
2曲目の『真夏の夜の夢』序曲で感じるのは、その絶妙なカンタービレ。
イタリアの音楽家とは明らかに違う、でも、とても“ 歌 ”に満ちた演奏。
これだけ細かい音符がある種メカニカルに動き回る曲なのに、まったく機械的に、練習曲的に響かないのは驚くべきこと。
ビーチャムという人が、いかに繊細なことをやっているのかがわかる曲です。
4曲目の『美しいメルジーネの物語』冒頭の、木管楽器の愉悦にみちた歌もまた印象的です。
それに続く弦の躍動も、深刻に響かないように抑制が効いていて、気品が保たれています。
この曲の抒情的な側面をしっとりと浮かび上がらせた演奏で、実に美しい物語が語られていく名演奏です。
そして、最後のお得意のベルリオーズ。
冒頭から、花火が打ちあがるようなきらめきです。
「得意」というのはおもしろいもので、先ほどまでとは響きから丸で違ってしまうのが不思議なところです。
先ほどまでの名演奏が「抑制の美」だとしたら、こちらは「開放の美」。
もう何も考えなくて、好き放題にみんなでやっているとこんなに素敵な演奏になってしまうんだというくらい、水を得た魚のような演奏です。
おもちゃをもらった子どもと言ったらおこられるでしょうか。
溌剌として無邪気で、天真爛漫。
楽しくてしかたないというような、音楽の純真で無垢な喜びが詰まった演奏。
これを聴いては、笑顔にならずにはいられないです。
French Ballet Music「フランス・バレエ音楽集」
1~7. ドリーブ:『歓楽の王』~バレエ音楽
8.ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
9.ドビュッシー:『放蕩息子』~コルテージュとエール・ドゥ・ダンス
10.サン=サーンス:『サムソンとデリラ』~ダゴンの神の女司祭の踊り
11.サン=サーンス:『サムソンとデリラ』~バッカナール
12.ベルリオーズ:『ファウストの劫罰』~妖精の踊り
13.ベルリオーズ:『ファウストの劫罰』~鬼火のメヌエット
14.マスネ:『シンデレラ』~ワルツ
15~21.グノー:『ファウスト』~バレエ音楽
( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)
盛沢山のアルバムですが、なかでも私のお気に入りは8曲目の『牧神の午後への前奏曲』、そして、15~21曲目の『ファウスト』バレエ音楽です。
ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』は、夏の昼下がりにまどろむ牧神の官能的な夢をあつかった作品で、実際、私はこの作品は夏の午後に聴きたくなります。
ジョルジュ・プレートルがベルリン・フィルのヴァルトビューネ・コンサートで指揮した演奏がいちばん印象にのこっていますが、それに次いで好きなのが、このビーチャムによる演奏です。
精密さを追求する近年の演奏とはちがう、リラックスした響きと、そこにたゆたう一種の“ 清涼感 ”が美しい、私のお気に入りの録音です。
『ファウスト』のバレエ音楽は、わたしは最初カラヤンとベルリン・フィルのものでよく聴いていて、そちらも素敵な演奏ですが、このビーチャムの演奏を聴いたときには、そのテンポの軽やかさと表情のやわらかさに驚き、あっというまに魅了されてしまいました。
彼がこの『ファウスト』バレエ音楽をリハーサルしている映像を観たことがありますが、とにかく愉快なリハーサルで「ポーン♪ポーン♪ポーン♪…1拍ずつだ。…そうだったと記憶しておる」なんて、おどけながら指揮を始めるのですが、そこから出てくる音楽のニュアンスの豊かさには舌を巻きました。
名門ベルリン・フィルの逸話に、巨匠フルトヴェングラーがほかの指揮者のリハーサルをのぞきに来ただけで、瞬時に楽団の音が変化してしまったというものがありますが、ビーチャムのあのリハーサルはそうしたエピソードの真実味を感じさせます。
その人が指揮台に立つだけで、楽団からその人の音楽があふれ出てくるというのが、きっと本当にあるんです。
巨匠ビーチャムのウィットに富んだ音楽がはっきりと感じられる名演奏です。
French Orchestral Music「フランスのオーケストラ音楽」
1~4.『カルメン』組曲(ビゼー)
5.歌劇『グヴェンドリーヌ』序曲(シャブリエ)
6~11. 組曲『ドリー』(フォーレ)
12. オンファールの糸車(サン=サーンス)
13. 楽しい行進曲(シャブリエ)
14. 狂詩曲『スペイン』(シャブリエ)
15. 小組曲(ビゼー)
16. 謝肉祭~『ローマ』(ビゼー)
( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)
こちらもフランス音楽を特集したアルバム。
このアルバムで、わたしがとりわけ魅了されるのが、フォーレの組曲『ドリー』です。
この曲はその親しみやすさから、よく演奏も録音もされますが、いろいろ聴いてみて、やっぱりオーケストラ編曲版よりも原曲の2台ピアノ版のほうが魅力的に感じることが多いのですが、例外的に、このビーチャムの演奏はしばしば聴きたくなる録音です。
たいていのオーケストラ録音で、第1曲はみんなうまくやるのですが、2曲目以降がだんだん退屈になりがちです。
でも、ビーチャムはそんなことがありません。
第1曲にはじまる夢のような音楽が、終曲まで、ずっと続きます。
純粋無垢な音、ある意味で、無邪気な響きがしているいっぽうで、とっても優しくて、どこかノスタルジックでさえある響きも同居していて、この音楽をとっても深いところで捉えた演奏が展開されます。
これは、並みの繊細さではとうてい到達できない、ニュアンスの極致のような演奏です。
Encore… Sir Thomas「アンコール… サー・トーマス」
- 喜歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲(ニコライ)
- 歌劇『セミラーミデ』序曲(ロッシーニ)
- 歌劇『結婚手形』序曲(ロッシーニ)
- 組曲『美しいパースの娘』(ビゼー)
- 『ハッサン』~セレナード(ディーリアス)
- 『コアンガ』~終わりの場面(ディーリアス)
( Apple Music:見つかりません… ・ Amazon Music↑ ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)
こちらも録音年代が古くなりますが、音楽は新鮮そのものです。
1曲目の『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲をこのように演奏できるコンビは、今も世界のどこかに存在しているのでしょうか。
アンサンブルはかなり大雑把。
それなのに、耳をひきつけてやまない活き活きとした音楽の躍動。
「正確さ」とはちがった側面から、この曲の姿をありのままに描ききっているような演奏。
3曲目以降は、やや地味な作品が並べられていますが、いずれも聴きやすい音楽が選ばれています。
4曲目に、ビゼーの組曲『美しいパースの娘』がおさめられています。
『カルメン』や『アルルの女』にかくれてしまう組曲ですし、実際、その2作はビゼーの作品のなかでも群を抜く存在だと思いますが、『美しいパースの娘』はそれらに次ぐ作品として、それらのあとでいいので、耳を傾けたい音楽です。
ビーチャムは、このちょっと控えめな作品を、温かな音とやわらかなニュアンスで、素朴な抒情性を大切にして演奏しています。
無理に盛り上げることもせず、作品に自然に語らせていて、実際、これでいいのではないかと納得し、魅了される演奏です。
おしまいには、ビーチャムが愛した英国の作曲家ディーリアスの作品が2つ、おさめられています。
最後の『コアンガ』というのはオペラ作品で、途中から声楽が入ります。
このオペラ自体はかなり悲しい結末の恋物語をあつかったものですが、静かで抒情的な世界のディーリアスらしく、その悲しみを優しく包み込むかのようなエピローグを聴くことができます。
演奏もまたしっとりとしていて、夏の夕暮れどきに耳を傾けていたい素敵な音楽と演奏。
そうして、これ以上ない余韻をもって、このアルバムはしめくくられます。
今ごろ思い出したのですが、この「英国最後の偉大な変人」と称えられたビーチャムによるブラームスの交響曲第2番をご紹介したのも、やはり去年の「夏」でした。
やっぱり、夏はビーチャムが聴きたくなる季節のようです。