2023年2月24日(金)19:00、サントリーホールでミハイル・プレトニョフ指揮する東京フィルの演奏会を聴いてきました。
このコンサートの前半では、2022年ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝したイム・ユンチャンが登場してベートーヴェンの「皇帝」を演奏。
たくさんのファンの方が押し寄せていた様子で、会場はおおいに沸いてアンコールが2曲も演奏されました。
この「皇帝」については、きっとたくさんの方がブログやSNSなど投稿をされると思いますので、私のほうは、もともとのお目当てだった、後半に演奏されたチャイコフスキー:マンフレッド交響曲について綴っておきたいと思います。
この日のプログラム
2023年2月24日(金)19:00@サントリーホール
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番『皇帝』
【ソリスト・アンコール】
J.S.バッハ:チェンバロ協奏曲第5番~第2楽章
J.S.バッハ(マイラ・ヘス編):主よ、人の望みの喜びよ
(piano)イム・ユンチャン
チャイコフスキー:マンフレッド交響曲 Op58
わかりにくい作品
「マンフレッド交響曲」は、チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikov1840-1893)が彼の代表作となる交響曲第4番と第5番のあいだに作曲した、番号なしの番外交響曲です。
ロシアの先輩作曲家バラキレフ(Mily Balakirev, 1837-1910)の提案による作曲で、バラキレフは当初ベルリオーズ(1803-1869)に打診したものの断られ、その話がチャイコフスキーにめぐってきたという経緯のようです。
「マンフレッド」バイロン著 岩波文庫(Amazon)
もとになっているのは、イギリスの詩人バイロンが書いた劇詩「マンフレッド」。
あらゆるものを手に入れた主人公マンフレッドの絶望と破滅を描いたもので、チャイコフスキーもまた、彼の最後の交響曲第6番「悲愴」とおなじ“ ロ短調 ”という調性で、この悲劇を描いています。
一般に、チャイコフスキーの交響曲のなかではあまり評価の高くない作品のひとつで、演奏される頻度も高いわけではありません。
ですが、私は数年前にユベール・スダーン指揮の東京交響楽団による素晴らしい実演を体験してから、この作品に対する強い愛情が一気に芽生えてしまいました。
その後、スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団の素晴らしいライヴ録音盤の存在も知って魅了されたのですが、その音源は最後にご紹介します。
この作品があまり演奏されない理由のひとつは、かなりストレートに演奏しないと、展開がわかりにくく、捉えどころのない、難解な作品に聴こえてしまう、という点でしょう。
実際、私もスダーンの指揮で聴くまでは、そうした「わかりにくい作品」だと思っていました。
そして、プレトニョフはどうだったかというと、「わかりにくい」ほうの演奏になっていました。
一種の「幻想曲」
プレトニョフについては、昨年、東京フィルとの共演で素晴らしい「白鳥の湖」を体験しましたが、彼自身の編纂によるその「白鳥の湖」のカットの仕方を見てもわかる通り、やや屈折した音楽観の持ち主です。
一筋縄ではいかない、独特な感性を強くもった音楽家。
プレトニョフは、その意味では、いかにも彼らしく、マンフレッド交響曲を指揮しました。
スヴェトラーノフのようにオーケストラを豪快に鳴らし続けることは避けて、全力で演奏されるのは、ほんとうに限られた箇所、クライマックスのところに限定していました。
また、スダーンのように、作品を明解で、くっきりとした姿で描き出すこともしませんでした。
プレトニョフは、総じて「幻想曲」のようなスタイルを保って指揮していて、それは、例えば、第2楽章の表情にわかりやすく、はっきりと見てとれました。
彼が以前にマンフレッド交響曲をロシア・ナショナル管弦楽団とレコーディングしたときに、“ 幻想曲 ”である「テンペスト」とカプリングしたのは、そうした視点からだったのでしょうか。
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ある意味では「奥歯に物が挟まったような」表現とも言えなくない音楽を展開していくプレトニョフ。
「ここぞ」というところでは、フルオーケストラによる力感あふれるダイナミックな表現が聴かれましたが、弱音や柔らかな表情はさらに重んじられていて、そのせいか、音のドラマとしての推進性が弱められているきらいがありました。
先に書いた通り、この曲は、こういうスタイルで演奏すると、途端に「難解」な作品になってしまいます。
実際、会場で聴いていて、とっても難しい音楽を聴いている気がしました。
部分部分は美しかったり、ドラマティックだったりするものの、展開がよくわからず、音楽の向かう先がいまひとつ見えてきません。
緩徐楽章である第2楽章や第3楽章ですら、どこか掴みどころのない音楽に聴こえてきて、その点で、やはりとても「幻想曲」風に解釈されていたと言ってよいと思います。
マンフレッドの絶望と「原典版」
こうして、難解な方向性で描かれていくマンフレッド交響曲。
ここで私が気になってくるのは、では、プレトニョフの本音はどこにあるのか、という点です。
内面を外に出そうとしない彼の本音、彼が隠し、抑えこんでいるかのようにすら思える情感が、いちばん溢れ出る瞬間はどこにあるのか。
この日の演奏で、その情感をいちばんはっきりと感じた箇所。
それは、フィナーレでも繰り返される、第1楽章コーダの全合奏による絶望的な旋律でした。
そして、この曲の精神は、まさにこの旋律にあるのだと私も感じます。
そうはっきりと感じるようになったのは、ユベール・スダーン指揮する東京交響楽団のコンサートで「原典版」と銘打たれたマンフレッド交響曲を聴いてからです。
通常の版では、フィナーレの最後でパイプオルガンが鳴り響き、マンフレッドの昇天を描く場面が描かれるのですが、「原典版」では、その部分が丸々なくて、第1楽章と同じコーダ、絶望的な旋律が全合奏で奏されて、強烈な悲劇のなかに曲が閉じられてしまいます。
天才は同じことを繰り返しません。
天才が同じことを繰り返すときは、それ相応の“ 意味 ”があるから繰り返すわけです。
第1楽章が悲劇的に終結したあと、第2楽章、第3楽章、そして、フィナーレの第4楽章とさまざまなドラマが展開されたにも関わらず、結局、「救済」はマンフレッドに訪れることはなく、第1楽章の絶望的コーダのなかに引き戻されてしまうという構図。
「原典版」で、この救いのない主題の全合奏で曲が閉じられたとき、私は初めて、このマンフレッド交響曲の精神がはっきりとわかったように感じられました。
一説によれば、この構成があまりにも絶望的なので、マンフレッドの昇天を描くパイプオルガンの音楽が書き足されたということですが、いずれにせよ、あの絶望的な主題がクライマックスとしての役割を担えるほどの重要性を持っていることは、疑いようのない事実です。
そして、プレトニョフもまた、この旋律にあれほど感情を溢れさせていたというところに、一筋縄ではいかない彼の、それでも、曲の勘所をしっかりと捉えて離さない審美眼を感じました。
もちろん、そうであるのなら、理屈からすれば、プレトニョフも「原典版」のほうを選択すればいいと思うのですが、そうしないところがまた、プレトニョフのプレトニョフたる所以なのでしょう。
ロシアの音楽家
プレトニョフは、今回のマンフレッド交響曲のあとも、次は5月に来日してラフマニノフの指揮、さらに9月にはピアニストとしてラフマニノフのピアノ協奏曲全曲演奏などを行う予定が発表されています。
ロシア政府と一定の距離を取り続けているせいで、自身が創設したロシア・ナショナル管弦楽団の音楽監督を一方的に解任されてしまったというニュースも一部で報じられているプレトニョフは、こうして、今年もまた、ロシア出身の音楽家として、ロシア音楽をメインに据えたプログラムを日本で展開するわけです。
欧米ではいったいどうなのでしょう。
ロシアの音楽家がロシアの音楽を、特におおきなトラブルもなく奏でることができ、それが聴衆に受け入れられているというのは、もしかしたら日本くらいなのではないかと、プレトニョフの姿を見ていて思いました。
そのことを批判的にとらえる向きもあるでしょうし、それもたしかに理解できます。
ただ、それがプロパガンダでない限りは、私は受け入れていきたいと思っています。
どんな形であれ、結局は「対話」にたどり着かなければならないわけであって、そしてまた、さまざまな対話は「聞く」ことから始まるはずだからです。
プレトニョフは今回のマンフレッド交響曲でも、以前のロシア・ナショナル管弦楽団とのレコーディングと同様に、パイプオルガン入りの「救済」の場面のある版を選択しました。
けれども、そこに本当に救済があったかというと、どうなのでしょう。
会場で体験したかぎり、プレトニョフは救済のある版を使ってはいたものの、やはり、悲劇の色彩のほうが色濃く残る演奏だったように思います。
プレトニョフは、いま、どうしてこの曲と向き合うことにしたのか。
偶然だったのか、必然だったのか。
さまざまなことを考えさせられるプログラミングです。
東京フィルの変化
東京フィルは、特に弦楽器セクションの充実が感じられて、耳をひかれる場面が随所にありました。
それから、昨年の「白鳥の湖」の公演レビューで、カーテンコールのときに「うつむきがちに無表情で立っている団員が多く、なにかいたずらをして立たされている生徒のよう」と書いたのですが、今回、だいぶ違っていました。
柔らかい表情の団員、仲間と言葉を交わして笑顔がのぞく団員が増えて、また、プレトニョフに指名されると、すぐに立ち上がる団員が多く、見ていて気持ちが良かったです。
プレトニョフの個性的なタクトに柔軟に対応して、それだけの仕事を成し遂げているのですから、こうして堂々と拍手に応えるべきです。
これは、とっても良い変化だと思います。
こうしたことは、まわりまわって、必ず音楽にも影響が出るはずです。
こうしたことは、また、ステージマナーといっていい範疇のものだとも思います。
日本のほかのオーケストラも「見せる」ということに対して、高いプロ意識を持ってほしいと思います。
原典版の録音
最後に、途中で話題に出したエフゲニー・スヴェトラーノフ(Yevgeny Svetlanov, 1928-2002)指揮ロシア国立交響楽団による、チャイコフスキー:マンフレッド交響曲の「原典版」の音源をご紹介します。
1992年、サントリーホールでのライヴ録音です。
20世紀後半のロシア(ソ連)を代表する指揮者のひとりだったスヴェトラーノフは、この年、手兵のロシア国立交響楽団と来日して、チャイコフスキーの交響曲全曲演奏をおこない、熱演に次ぐ熱演を繰り広げました。
いちばん素晴らしいのは交響曲第4番の録音ですが、それと並んで、このマンフレッド交響曲が出色の出来栄えだと思います。
( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)
CDでお聴きになりたい場合はちょっと注意があって、こちらは、現在はオクタヴィア・レコードという会社からリマスター盤が出ているのですが、私には、これはちょっと疑問のあるリマスター盤です。
音があまりに綺麗すぎるんです(全集のなかで、交響曲第5番だけはリマスター盤が優れていると思います)。
スヴェトラーノフを実演で聴いたかたは、おそらく、現在のリマスター盤を聴いて、多少なり違和感を感じるはずです。
スヴェトラーノフ&ロシア国立交響楽団の音というのは、現在のリマスター盤のような、バランスの良い、パートごとの音がきれいに分離した、すっきりとした音では全くありませんでした。
彼らの音は、もっと重くて、土の塊のようであって、洗練されていない、地鳴りのような音でした。
その点で、初出時のポニーキャニオン盤のほうが、よほど実際の音に近いものです。
ですので、ここでは、そのポニーキャニオン盤のリンクを貼っておきたいと思います。
一度手に入れるとみんな手放さないのか(私もそうですが)、希少盤になっているようで、ちょっと手に入りにくくなっているのですが、根気よく探してみてください。
チャイコフスキー: 「マンフレッド交響曲 」原典版Op58(Amazon)EAN : 4988013464537
それと、オランダ出身の名指揮者ユベール・スダーンがこの曲を指揮する機会があったら、是非とも出かけていって実演に接してみてください。
もちろん、そうした情報が見つかったら、このブログの「コンサートに行こう!お薦め演奏会」のページでもご紹介します。
現代随一の「マンフレッド交響曲」を体験することができます。
スダーンが東京交響楽団とこの作品をレコーディングすれば、それこそ、この曲の「代表盤」のひとつになるはずです。
関係者の方がご覧になっていたら、是非ご一考いただきたいです。
♫このブログでは、音源をご紹介するときに、オンライン配信されているものを中心にご紹介しています。オンライン配信でのクラシック音楽の聴き方については、「クラシック音楽をオンライン(サブスク定額制)で楽しむ~音楽好きが実際に使ってみました~」という記事にまとめています。