2022年4月2日(土)14時、サントリーホールで行われた小林研一郎さん指揮する日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートを聴いてきました。
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約20年ぶりのコバケン
熱狂的なファンがたくさんいる「コバケン」こと、小林研一郎さんですが、私はそこまで熱心に聴き続けてきたわけではありません。
CDも一枚も持っていません。
というのも、音楽ファンはみなさんご存じのように、コバケンさんのCDにはたいてい大音量で唸り声がずっと入っていて、私はどうしてもあれが苦手で、興味はあっても結局CDはほとんど聴けないまま、今に至っています。
そして、今回、おそらく20年ぶりくらいにコバケンさんのコンサートに行ってみました。
別に敬遠していたわけではなくて、私はとにかく色々な演奏家を生演奏で聴いてみたくて、あれやこれやと巡っているうちに、そして、仕事などで年間に通えるコンサートの数もそこまで多くないこともあって、いつの間にか月日が経っていたという感じです。
いつの間にか“炎のマエストロ”も御年81歳。
光陰矢の如しです。
その20年ほど前に聴いた、小林研一郎さんのいくつかのコンサートのなかに、ブラームスのピアノ協奏曲第1番を指揮したものがありました。
どこのオーケストラで、ピアノ・ソロがどなただったかなどは思い出せないものの、ピアノが主役のときはあまり面白くなくて、オーケストラが前面に出る部分は急に面白くなるという光景が繰り返されていたのは、今もはっきりと覚えています。
“炎のコバケン”といえば、ベルリオーズの《幻想交響曲》、チャイコフスキーの5番、スメタナの《わが祖国》など、得意なレパートリーが実にはっきりと決まっている方ですが、以前聴いたブラームスのことを思い出して、今回はあらためて彼の指揮するドイツ・プログラムのコンサートを聴きに行ってみました。
前半にシューマンの交響曲第4番ニ短調、後半にブラームスの交響曲第4番ホ短調という、師弟関係にあった大作曲家ふたりの交響曲第4番を並べたプログラムで、オーケストラは日本フィルハーモニー交響楽団でした。
支離滅裂なシューマン
小林研一郎さんは80歳を超えたといっても、足取りは軽く、颯爽とサントリーホールの舞台に登場されました。
ほとんどの指揮者は指揮台にあがるとマスクをとりますが、小林研一郎さんは終始マスクをつけたままで指揮をしていらっしゃいました。
前半のプログラムはシューマンの交響曲第4番ニ短調。
その第1楽章がはじまって、まず耳をひいたのは、コントラバス8本が支えるずっしりとした重低音と中音域の充実。
それから、気持ちゆったりとしたテンポ、そして、例のごとく粘り気の強いフレージング。
それらが総じて、とても濃厚な表情になって、冒頭からいかにもこの指揮者らしい個性の刻印がはっきりと押されていきます。
ただ、音楽が進むにつれて感じたことは、小林研一郎さんはあまり構成的なタイプの指揮者ではないということ。
聴きながら、今、提示部なのか、展開部に入ったのか、再現部が訪れたのかなどなど、形式があまり伝わってきません。
形式というのは「交響曲」という構造物において重要な要素なので、そこがはっきりしないとなると、本来なら耳が興味を失ってしまうところですが、その瞬間その瞬間になりひびく音楽を、めいいっぱい気持ちを込めるように弾かせているために、それでも何とか聴かせてしまうところが、この方の力業というか、凄いところでしょう。
なので、瞬間瞬間においては、凄い音が突如現れて驚かされます。
第1楽章の冒頭の序奏部でも、ティンパニが非常に深い響きを奏でて、ドイツの仄暗い雲を思わせるような、静かながら劇的な、一度聴いたら耳の奥にずっと残るような響きが出現していました。
そこに限らず、そうしたすごい瞬間は実に随所にあって、そのたびに驚かされ、耳を奪われ。
ああした瞬間瞬間が、もし曲の冒頭からおしまいまで持続したら、さぞや凄いことになるんだろうと思います。
印象に残った管楽器奏者たち
ただ、かなり緩急を自在にとったアプローチ、独特な表現だったために、聴き終わったあとに「支離滅裂」な印象が残ったのは事実です。
それはきっと演奏したオーケストラ側にとってもそうだったはずで、シューマンが終わった後の、管楽器奏者たちの一様に腑に落ちないかのような表情はとても印象的でした。
指揮者にカーテンコールで起立を求められても、渋々と言うか、そこには笑顔がまったくありませんでした。
彼らの、そうした頑なな姿勢がわたしはむしろ見ていて面白くて、後半のブラームスはいったいどう吹くんだろうと興味津々でした。
ブラームスの交響曲第4番ホ短調
小林研一郎さんの指揮の大きな特徴のひとつは、その濃厚な表情づけ、湿度の高いフレージングだと思います。
なので、きっとブラームスの交響曲第4番は、さまざまな旋律がじっくりと歌いこまれていくんだろうと予想して、このブラームスこそが当初は期待の演目だったんですが、実際に聴こえてきたのは、シューマンよりはるかに薄味な音楽でした。
これは本当に意外で、聴きながら、あれ?っと思っている間に、結局、フィナーレまで行ってしまいました。
後半のブラームスで印象に残ったのは、指揮者の体臭より、むしろオーケストラの音、それも、何より管楽器の豊かさでした。
特に木管楽器のゆたかな和声、フレーズの受け渡しの精妙さは、耳をうばわれる見事なものばかりでした。
第4楽章のあの長いフルートのソロのところでは、指揮者の方向性にあわせて、最大限に濃厚なフレージングを奏でていました。
あのフルーティストに自然に吹いてもらったら、決してああいうフレージングにはしないだろうと思います。
きっと自身の音楽性を、許せるぎりぎりのところまで指揮者の世界観に近づけたであろうソロには、ほんとうに感心しました。
シューマンのあとには憮然としていた管楽器のメンバーが、ブラームスのあとには笑顔が見られたのも納得の演奏でした。
ブラームスでのデフォルメ
薄味といっても、局所的にいちばん驚かされたのは、ブラームスの第1楽章のおしまいのあたり。
ホルンをベルアップさせて、吠えるように吹かせてクライマックスを作ったときには、さすがにびっくりしました。
突出したホルンに周りの音がかき消されていたので、それが効果的だったかと言われると疑問がありますが、ああした「デフォルメ」を現実にやってしまうということが、この指揮者の「表現者」としての大きな資質なんだと思います。
今現在、世界を見渡しても、あそこまで思い切った手段を、確信を持って実行できている人は希少なはずです。
結局、面白かったのは前半のシューマン
コンサートが終わってみて振り返ると、不思議なことに、頭に浮かんでくるのは、あの“支離滅裂”なシューマンのことばかりでした。
そう、ブラームスよりシューマンのほうがはっきりと面白かったというのは、この指揮者について私には興味深いところです。
それをよくよく考えてみると、ブラームスとシューマンの音楽の違いのようなものまで自然と見えてきます。
それは少なくとも今回の演奏に関して言えば、「文学性」、「物語性」というところになるんでしょう。
思えば、小林研一郎さんの得意とするレパートリーの多くは《幻想交響曲》、《わが祖国》、《マンフレッド交響曲》など、ドラマのある音楽です。
純音楽的ドラマというより、筋書きがあるような意味での「ドラマ」。
物語性のある音楽にこそ、はっきりと適正がある指揮者ということなんでしょう。
シューマンの交響曲第4番は良く知られているように、もともとは「幻想曲」、ファンタジーでした。
第3楽章から第4楽章への大きな、劇的なブリッジをふくめ、表題などは一切ないものの、ブラームスの交響曲第4番より遥かに文学的傾向や物語性があるわけで、小林研一郎さんがそこを拠り所に演奏していたとすれば、これはとても納得のいく話です。
ブラームスのように、あれほど流麗に流れが設計されつくした音楽では、シューマンのように、場面場面を拡大させて展開していくというわけにはいかないということでしょう。
だからこそ、前半のシューマンでは、さまざまな音楽が、その繋がりこそ希薄だったものの、いろいろに展開されて、ひたすらに歌いこまれていって、感心したりびっくりしたり、とにかく聴いていて面白かったわけです。
宇野功芳さんの言っていたこと
私がよく音楽雑誌を読んでいたころには、宇野功芳さんというアクの強い、面白い音楽評論家がいらっしゃって、小林研一郎さんの演奏をいろいろと絶賛されていました。
あの日客席で聴いていて、その宇野功芳さんの言葉をいろいろと思い出しました。
「気持ちがこもっている音」とか「意味深い音」とか書かれていたものが、一体どういうものを指していたのか、それが実によくわかるシューマンの演奏でした。
局所的な沈殿と拡大
より標準的だったブラームスよりも、ちょっと変な演奏だったシューマンのほうが何倍もおもしろかったというのは、とても大切な印象です。
この方がたいへんな人気をずっと保っているのは、どの演奏にもその個性がはっきりと刻印されているからでしょう。
「コバケンを聴いた!」という感覚が残ることがとても凄いことで、それこそがホールに集まる聴衆の楽しみというわけです。
その粘り気の強いフレージングなどの強い特徴は、他の人では決して聴けないものです。
さらには、中低音や内声部のたっぷりとした響かせ方が、不思議なほどのスケール感を呼び起こす瞬間があるのも魅力で、そう、実に言葉通り「不思議な魅力」に溢れた指揮者です。
その濃いめの抒情はかなり「日本的」なものに寄っていて、総じて曲線的なカーヴを描いているフレージングが多く、その意味では、日本人以外の人が聴いたときには、あまりに東洋的で違和感を感じるのではないかとさえ思いますが、何といっても、そうした様々な個性が、局所的にひどく大きく拡大されて、その瞬間その瞬間に生じた美しさを味わいつくそうとする強い傾向こそが、小林研一郎さんの指揮を聴くいちばんの楽しみだと感じました。
さきほども書いた通り、構成力が強いわけではないので、小林研一郎さんの演奏を「めちゃくちゃだ」と感じる人がいても理解できます。
一方で、わたしは今回ひさしぶりに実演を聴いて、とっても楽しかったというのが素直な感想です。
およそ20年前に聴いたときには、ここまで強い印象を受けた公演はなかったので、今さらながら、もっと頻繁に聴きに行っておくべきだったと後悔しているくらいです。
餅は餅屋なのか
今回はシューマンにブラームスというドイツ・ロマン派の音楽を聴いたわけですが、きっと、もっと構成がシンプルな楽曲、もしくは構成がドラマに直結している楽曲のほうがコバケン・ワールドをじっくり楽しめるはずだと感じたので、つまりは、コバケンお得意のレパートリーである《幻想交響曲》やチャイコフスキーなどを、機会をとらえて聴きに行ってみようと思います。
ふり返ってみると、なぜかそうした定番レパートリー以外の公演しか生で聴いていなかったので、「やはり餅は餅屋なのか」というのを遅ればせながら確かめてみたいと思っています。
幸い、コバケンさんは得意なレパートリーを繰り返し取り上げる指揮者なので、そう遠くない未来に体験できるのではと今から楽しみにしています。
そして、局所的な沈殿と拡大という方向性を考えれば、当然、マーラーもきっと面白いと思うので、マーラーも体験してみたいところです。