オランダの名指揮者ベルナルト・ハイティンクが、2021年10月21日に92歳でその生涯を閉じたというニュースがありました。
2019年にすでに引退をなさっていましたが、またひとり、名指揮者がいなくなりました。
今回は、私が聴いた彼の演奏会の思い出や彼の残した録音をご紹介しながら、この名指揮者のことを偲びたいと思います。
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ハイティンク指揮ウィーン・フィルの日本公演
私はベルナルト・ハイティンクを生演奏ではたった1回しか聴いていません。
でも、その1回がまちがいなく、彼の絶頂期のなかの1回だったと今も感じています。
それは1997年10月18日、東京の赤坂にあるサントリーホールでウィーン・フィルを指揮しての公演でした。
シェーンベルク:5つの管弦楽曲 Op16
ブルックナー:交響曲第7番 ホ長調
(アンコール)
ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ『うわごと』
ウィーン・フィルの生演奏を聴いたのも、あの晩が初めてでした。
ハイティンクは2000年代に入っても数回来日していたと思いますけれど、彼の指揮芸術が本当に輝いていたのは1970年代から1990年代だったと思います。
2000年代に入ってからの演奏は、やや弛緩してしまった印象がぬぐえませんでした。
そうした印象があって、私は近年の公演にはあえて足を運びませんでした。
これに関しては、マゼールのときと違って、後悔は今もありません。
ハイティンクのとってもいい時期の、本当に素晴らしい演奏を体験できたという実感があって、むしろ、そのときの体験を大切にしておきたいというのが私の彼への敬意でした。
ハイティンクをご存知ない方のために
ベルナルト・ハイティンクは1929年、オランダのアムステルダム出身の指揮者です。
特にその名前が有名になったのは、オランダのアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(現在のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)の首席指揮者に抜擢されたことがきっかけでした。
オランダのアムステルダムには、その名も「コンセルトヘボウ」という非常に音響が優れた音楽ホールがあります。
このホールのために組織されたオーケストラがアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団という名門オーケストラです。
ウィレム・メンゲルベルクという大指揮者が活躍して一時代を築きましたが、彼は残念なことに戦時中ナチスに協力をしてしまったので、戦後、排斥されてしまいます。
その後、代わってエドゥアルド・ファン・ベイヌムという、こちらも素晴らしい指揮者が楽団を率いました。
ベイヌムはあたらしく黄金時代を築くものの、惜しまれることに健康を害して急死してしまいます。
そこで、歴代の首席指揮者をずっとオランダ人から選んでいた伝統もあって、当時32歳の、まだまだ若かったベルナルト・ハイティンクがこのオーケストラの首席指揮者に選出されました。
これは大抜擢も大抜擢で、その若さゆえに、最初の数年間はドイツの老巨匠オイゲン・ヨッフムが共同で首席指揮者として補佐をしていました。
しかし、ハイティンクはその後も実に27年ほどにわたって、このオーケストラを率いることになります。
そうして、コンセルトヘボウ管弦楽団のほかにも活躍の場所は広がり続けて、数多くのオーケストラ、そして、オペラの名指揮者としても活躍し、2019年に引退なさっていました。
彼は強烈な個性で楽団をリードするタイプではなくて、地味だけれど安心して寄りかかれるような指揮者だったと思います。
オーケストラを確実にリードしつつも、それがあくまで自然に引き出されてくるのが彼の真骨頂であって、彼の指揮を聴く醍醐味でした。
ハイティンクが導いたウィーン・フィルの音
ウィーン・フィルを指揮しての、あのサントリーホールでの公演もまさにそうしたものでした。
とりわけ、ブルックナーの交響曲第7番はとても壮麗で、美しい演奏でした。
ブルックナーの交響曲第7番は、ブルックナーが書いた全9曲の交響曲のなかでも、とりわけ旋律が美しいことで名高い傑作です。
その第1楽章は弦楽器の静かなトレモロの上に、チェロが雄大な、美しい旋律を歌うところから始まります。
あの日、ハイティンクに導かれたウィーン・フィルのチェロ群が、あの美しい旋律を奏で始めた瞬間、わたしはウィーン・フィルがなぜ世界で特別な扱いを受けているのかを、はっきりと教えられました。
息をのむほど美しい音というのが存在するんです。まったく、楽器から出ている音には思えませんでした。
何か人間の声のような、生命を持ったものから生まれている音でした。
あの日の公演はNHKが収録に来ていて、ああいうチェロの信じがたい音はいったい録音に入りきるんだろうかと思いましたが、後日の放送で、やはりまったく違う音に聴こえて納得したのを覚えています。
ハイティンクはスケールの大きな指揮者というよりは、渋い、堅実な芸風でしたが、1990年代のころは、そこに造形の雄大さが加味されていました。
少しこじんまりしていたものが、大きく翼を広げたような印象がありました。
あの日のウィーン・フィルがあれほど、広がりのあるブルックナーを奏でられたのも、当時のハイティンクあってこそでした。
まさにウィーン・フィルの美質を見事に引き出していた一夜で、トランペットやホルンを始めとする金管軍の分厚い、強くて柔らかい響き、静かな箇所でサントリーホールの奥の奥まで響いているのがはっきりとわかるフルートのソロなど、忘れられない音楽がたくさんありました。
ハイティンクとブルックナー
ブルックナーの作品はオーケストラ全体が一斉に休む「ゲネラル・パウゼ」が頻出するなど、彼の独特な作風のせいで、いわゆる“ ブルックナー指揮者 ”と呼ばれるブルックナーを上手に指揮できる、特別な指揮者が必要になります。
近年ではギュンター・ヴァント、セルジュ・チェリビダッケ、あるいは日本では朝比奈隆さんなどがブルックナー指揮者でした。
ハイティンクはレパートリーが広大で、特にブルックナー指揮者として名高いわけではありませんが、ブルックナーの交響曲全集も早い時期に完成しています。
彼の自然な響き、自然なテンポを尊重する姿勢は、ブルックナーの音楽に適していたはずです。
特にその全盛期においては、響きのスケールの大きさ、堂々と腰のすわった音楽づくりで、“ ブルックナー指揮者 ”たちと並ぶような名演奏を繰り広げていたように思います。
ただ、他のブルックナー指揮者たちと彼がはっきり違うのは、そこに指揮者の個性の烙印が押されていないという点でしょう。
“自然な音楽”と“自然な響き”を尊重する指揮者
彼があの夜指揮した交響曲第7番は、ウィーン・フィルの良さを最大限に引き出し、ブルックナーの音楽の美しさをあくまで自然に表出させていました。
ただ、そこにはハイティンク独特の何かというものは一切ありませんでした。
そこが、つまりは彼の芸風であって、彼はあくまで自然体でした。
では、彼の特徴は何かとなったとき、それはきっと何より“ 自然な音楽 ”と“ 自然な響き ”を尊重する姿勢でしょう。
たとえば、イギリスの名物指揮者ロジャー・ノリントンが学生オーケストラを指揮したというと、何か起きるんじゃないかとわくわくさせられるものがあります。
けれど、ハイティンクが学生オーケストラを指揮したと聴いても、そこまでわくわくはしません。
オーケストラが自然に兼ね備えているものを、等身大に引き出すというのが彼の芸術であって、場外ホームランを打つことは彼の仕事の領域ではなかったでしょう。
コンセルトヘボウとウィーン・フィル
彼が、他ならぬアムステルダムのコンセルトヘボウ管弦楽団を長年にわたって率いたというのは、そう考えるととても興味深いことです。
あのオーケストラは、何といっても音が美しいオーケストラです。
彼らは、世界でもっとも美しい響きを誇るホールのひとつ、アムステルダムのコンセルトヘボウを本拠地とするオーケストラであって、独自の美しい音を誇る楽団です。
その楽団の指揮者として彼が25年以上活躍したのは、彼の美質と楽団の美質が調和していたからでしょう。
コンセルトヘボウ・オーケストラを去ったあとに、とりわけ緊密になっていたオーケストラのひとつが、ウィーン・フィルだったというのも、そういう意味で納得のいくところです。
ウィーン・フィルの本拠地もまた、世界でいちばん美しい音響を誇るとされる楽友協会の黄金のホールです。
「ウィーン・フィルはいつもウィーン・フィルの音がする」という話がよくありますが、私の体験したところでは、残念ながら必ずしもそうではありません。
あのあとにもウィーン・フィルの公演には別の指揮者で聴きに行きましたが、ハイティンクが指揮したときの音の輝きは聴こえてきませんでした。
天下のウィーン・フィルと言えども、それにふさわしい指揮者を指揮台に招かなければ、実力を常時は発揮できないということです。
コンセルトヘボウとウィーン・フィルという、音の美しいホールを本拠地とする、音の美しい楽団。
そして、どちらも“ 自然な ”音楽の流れを好む楽団。
そうした特質は、まさにハイティンクの領域でもあったわけです。
素晴らしかった1980~1990年代の名演奏
彼はそうして後年になればなるほど、巨匠として讃えられていましたが、一時代前の巨匠指揮者たちとはちがって、もう少しスケールの控えめな指揮者でした。
その控えめな名指揮者がおそらく気力体力ともに充実していたのが、1980~1990年代だったのでしょう。
あの頃ラジオなどで彼の指揮する演奏会が流れてくると、非常に安心して、わくわくしながら聴いていられました。
彼が指揮台に立つということがひとつの品質保証のように、確実に「安定したもの」を聴けるという思いがしたものです。
ベルリン・フィルを指揮したブルックナーの交響曲第4番『ロマンティック』やストラヴィンスキーの『春の祭典』、ハンガリー出身の名指揮者ゲオルグ・ショルティの追悼としてウィーン・フィルを指揮したベートーヴェン:交響曲第3番『英雄』、ザルツブルク・イースター音楽祭でのモーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』など、素晴らしいものがたくさんありました。
私にとって彼がいちばん輝いていた時期に、ウィーン・フィルという最上のオーケストラとの共演で、彼が引退公演に選曲することとなるブルックナーの交響曲第7番を体験できたことは、本当にかけがえのない体験となっています。
彼が2000年代以降、次第に往年の輝きを失ってしまったのはさびしいことでした。
ご紹介したように彼は2019年の引退公演でも、やはりウィーン・フィルとブルックナーの交響曲第7番を演奏しました。
少しだけ聴きましたが、やはり以前の演奏の方が圧倒的に素晴らしかったというのが正直な感想です。
私としては、やはり1980年代から1990年代、彼の芸術がいちばん大きな花を咲かせていた時代がなつかしくて、そうした時期に彼が残してくれた録音に耳を傾けながら、彼の音楽を思い出し、大切に聴き続けていきたい気持ちです。
私のお気に入り~ハイティンクの名演奏
彼は2000年代にも大量の録音がリリースされました。
けれど、やはり私が心からお薦めできるのは1990年代までの録音になります。
彼はフィリップスというレーベルからCDをたくさん出していましたが、CD派の方は現在流通しているものではなく、1990年代前半までにリリースされた中古品をさがして聴くようにしてください。
フィリップスはとても音質の良いCDを1990年代前半まで出していて、他のレーベルに吸収されてからは音が変わってしまいました。
ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
私がウィーン・フィルとの共演で聴いた曲です。
こちらは1978年にアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団と録音したもの。
出色の出来栄えで、彼とオーケストラの美点である“ 自然な美しさ ”が豊かな響きでスケール大きく描かれています。
私があの日聴いた演奏もこちらに近いものでした。
引退時期の演奏が多数リリースされていますが、私が本当に大切に聴きたい彼の音楽、伸びやかで自然で、温かななかにも陰影が深い音楽は、こちらにあります。
🔰ブルックナー初心者の方は、第3楽章や第4楽章などの、比較的短い楽章から聴いてみてください。
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シューマン:交響曲第3番変ホ長調『ライン』
これはまずラジオで聴いて魅了されて、次にテレビのBGMで流れてきたときに、演奏者を見なくても「あ、ハイティンクの録音だ」とわかったくらい、独自の音響のスケール感を誇る、忘れがたい録音です。
雄大なライン河が鳴り響いているかのような音。
これは、一度新しいCDで買ったものの音が全然違うので、中古店で古いものを買いなおしてきた思い出があります。
🔰始めて聴く方は第1楽章、その雄大な冒頭をまず聴いてみてください。
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ブラームス:交響曲第2番ニ長調
渋みあふれる芸風だったハイティンクにとって、相性の良かった作曲家のひとりがブラームスでしょう。
彼はあとにボストン交響楽団ともブラームスを録音していて、そちらも素晴らしい演奏でした。
こちらは、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との録音。
🔰始めてブラームスの交響曲第2番を聴く方は、初演時にもアンコールされたという第3楽章、もしくはフィナーレの第4楽章から親しんでみてください。
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ドビュッシー:管弦楽作品集
すべてドビュッシー作曲で、交響的素描『海』、『牧神の午後への前奏曲』、管弦楽のため『映像』の3曲が入ったアルバム。
オーケストラの音色の美しさが最大限に引き出された演奏で、これ以上ないほどクリアで美しい音の連続です。
それでいて、音に若干の温かさが残っているところに、他の腕達者な楽団との違いを感じさせられます。
際だった美しさを持ちつつも、機械的には決してならないという、このコンビの美点が感じられて好きなアルバムです。
🔰始めて聴く方は『海』の第3楽章、『牧神の午後への前奏曲』、もしくは『映像』のいちばんおしまいのところから聴いてみてください。
( Apple Music↓・Amazon Music・Spotify・Line Music などで聴けます)
モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』
以前NHKでザルツブルク・イースター音楽祭でのものが放送されて、そのとき初めてこのオペラに惹きこまれました。
ここにご紹介するのは、彼がオペラで活躍するの主軸のひとつだったイギリスのグラインドボーン音楽祭のもの。
安心してずっと聴いていられる素敵な録音。
🔰『フィガロ』初心者の方は、トラック24の“恋とはどんなものかしら?”から聴いてみてください。
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