最後の巨匠のひとり、イタリアの指揮者リッカルド・ムーティが2023年の春も日本へやってきました。
御年81歳。
イタリア・オペラ・アカデミーin東京の第3弾として、ヴェルディ:歌劇「仮面舞踏会」がコンサート形式で上演されました。
2023年3月30日(木)18:00、上野の東京文化会館で聴いたこの公演について、つれづれにつづっていきます。
なぜモーツァルトのようにヴェルディを大切にしないのか
「ベートーヴェンのかぎりなく豊かなニュアンスが、彼の指揮では、アリアとトゥッティの2つの要素に分解されてしまう」
こんなようなことを、往年のドイツの巨匠フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, 1886-1954)が、イタリアの巨匠トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867-1957)の演奏について言っていたはずです。
これは、フルトヴェングラーがトスカニーニを批判している言葉なわけですが、いっぽうで、「イタリア・オペラへの一般的な認識」をもまた、表していると思います。
つまり、イタリア・オペラというのは、アリアとトゥッティという、非常にシンプルな2つの要素でできた音楽であり、はっきりと言葉にこそしないものの、ドイツ・オーストリア系の音楽より一段下の音楽であると。
ムーティは、以前から、こうしたイタリア・オペラへの認識を正してほしい、という発言を繰り返しています。
以前、彼のレクチャーを聴きに行ったときも、モーツァルトやR・シュトラウスなどのドイツ・オペラは、綿密に、詳細に楽譜が検討されて、祭壇にまつられるかのように丁重にあつかわれているのに、イタリア・オペラとなると、歌手の意思で音を変え、自由気ままに上演されることが至極当然のこととして定着しているのは、いったいどういうことなのか、と憤っていました。
例えば、「リゴレット」の歌詞の一部が誤植のまま広まってしまっていて、いまだに訂正もされずに世界中で上演されているのは、ドイツ・オペラだったら起こり得ない状況だろうと。
確かに、彼の言い分はもっともだと思いました。
ただ、イタリアのオペラ歌手の伝記などを読んでいると、ひと昔前は、農家の人から職人さんから料理人から駅員まで、あらゆるひとたちが日常的に、ヴェルディなどのオペラ・アリアを楽しみとして歌っていたことがわかります。
クラシック音楽がそれくらい生活のなかに溶け込んでいるというのは、オペラの国であるイタリアならではのことのように思え、ドイツやオーストリアではちょっと考えられないことではないでしょうか。
つまりは、それほど歌いやすく、親しみやすい旋律線を持っているということが、イタリア・オペラの特徴のひとつであり、カンタービレの文化、精神の最たる結晶なのかもしれません。
そして、その距離の近さが、ムーティが憤るような現状を、いっぽうでは招いているのかもしれません。
ムーティの憤りを聞いて納得すると同時に、別にドイツ・オペラのように祀り上げられなくても、イタリア・オペラはイタリア・オペラにしかないような庶民性があるのであって、それもひとつの特徴として捉えれば済む話ではないかとも私は思いました。
でも、ムーティは決してそうではありません。
彼は、その意味で、若いころからイタリア・オペラの非常に厳格な指揮者であって、原典主義を貫き、それゆえに、歌手たちとの衝突も多かった指揮者です。
バーバラ・ボニーのような名歌手も、一時期、「彼とは共演したくありません」とムーティを批判していたのを覚えています。
そうした衝突をくりかえしながらも、ムーティはムーティの王道をずっと歩み続けたわけです。
ムーティが到達したオペラの境地
今回、東京文化会館で彼のヴェルディ:歌劇「仮面舞踏会」を聴いて、やっと私は、彼が目指していたもの、彼が語っていたもの、彼が到達したかったものを、はっきりと感じとることができました。
ムーティのヴェルディというと、かつては非常に直線的で、情熱的なものでした。
バイク事故で若くして亡くなってしまったサルヴァトーレ・リチートラ(Salvatore Licitra, 1968-2011)が主役を歌った歌劇「トロヴァトーレ」のライヴ録音などは、その最たるものといっていいはずです。
私はこの録音が大好きで、今もよく聴きます。
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あれから年月を経て、今も若々しいムーティに変わったものがあるとすると、それはやはり音楽です。
以前は速めのテンポでストレートな音楽を志向する傾向が強かった彼が、だんだんとテンポが落ち着いてきて、“ 調和と均衡 ”を重んじた音楽を聴かせるようになりました。
ここ数年は、そうした彼にとって晩年様式といっていいような、落ち着いたテンポによる深い抒情をたたえた音楽づくりへの移行が、すっかり成し遂げられたのがわかります。
そうして今回、彼が聴かせたヴェルディは、もう以前のものとは、まったく別の次元のものでした。
ここまでの完成度に到達した彼のヴェルディを、これまでのものと同列に考えたり、延長線上で捉えることは、私にはできません。
それくらい、今回体験した「仮面舞踏会」は傑出していました。
冒頭から、とっても落ち着いたテンポ、地に足のついた音づくりでオペラの幕があがります。
そこに広がるのは、“ 調和と均衡 ”で満たされたイタリア・オペラの世界。
それはもう、演劇というより「詩」であって、その音楽の純度は「古典的」といってところまで高められていました。
そのことによって、偉大なる作曲家ヴェルディが、いかに精緻で、完璧なスコアを書いていたかという事実に、はじめて気づかされました。
歌手でもなく、指揮でもなく、また印象的などこかの一場面ではなく、「ヴェルディの作曲」そのものが最も強く迫ってきたということ。
これは、私にとってイタリア・オペラを聴いていて初めての体験で、そのことが、同時に、それを可能にした歌手や指揮者の非凡さをもまた、証明していました。
この上演に接して初めて、「なぜヴェルディをモーツァルトのように扱わないのか」というムーティの真意を理解することができました。
理解、というより、これこそ「体験」という言葉が正しいでしょう。
1つの作品としての音楽的調和、ヴェルディが「仮面舞踏会」で獲得した古典的な普遍性。
それをはっきりと体験することになりました。
ムーティがやってみせた仮面舞踏会は、アリアとトゥッティがつぎはぎされた世界でも、メドレー形式によって印象的な場面がつなげられた世界でもありません。
すべての音楽、すべての言葉、すべての歌、すべての展開が、たった1つの古典的な造形のなかに凝縮され、調和した音楽でした。
そして、ムーティからすれば、それこそがイタリア・オペラの本来の姿、真の姿ということになるのでしょう。
イタリア・オペラを聴いて、これほど、その作品の「完成度」を感じたことは今までにありません。
ラヴェルは、あるとき、「あなたがこの世を去るときに、どんな音楽を奏でてもらいたいと思いますか?」と尋ねられ、「ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』を奏でてほしい」と答えたそうです。
ラヴェルによれば、音楽作品というのは、たいてい、いくつかの霊感の組み合わせで成り立つものであって、天才モーツァルトの作品であっても、その霊感のつなぎ目を見つけることができるんだそうです。
ところが、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」は、どこにもつなぎ目が見出だせない、たったひとつの霊感から派生した奇蹟のような音楽なんだそうです。
極論すれば、私はこの日、ヴェルディの「仮面舞踏会」に、そうした“ ひとつの音楽 ”を聴きました。
私にはラヴェルのような天才の審美眼はそなわっていないので、霊感のつなぎ目を名曲に見出だすことはできませんし、むしろ、私が好んで聴き、大切にしている名曲の数々のそれぞれに、ひとつの霊感による有機的な生成と発展を聴くのですが、今回、イタリア・オペラを聴いていて、初めてそれを感じました。
それを可能にしたのは、やはり、ムーティの現在の“ 抑制と調和 ”を重視したスタイルでしょう。
どのような音楽が響いていても、つねに全体のなかでの位置づけがはっきりとしていて、盛り上がるだけ盛り上がって、そのあとに音楽の緊張が途切れてしまうというようなことも一切ありません。
こう書くと、何だか平坦なオペラの上演がおこなわれたように勘違いされてしまうかもしれませんが、そこはさすがイタリア人であるムーティの情熱的な音づくりが、適度に、そして、見事に融合していて、その劇的性格、ドラマがオペラから失われるようなこともありませんでした。
音楽的完成度とドラマが、高次元で融合した演奏。
もっと正しく言えば、ムーティがそうした演奏をしているのは、そうなるべくヴェルディがスコアを書いているからだ、ということになります。
ヴェルディが作曲家として、ここまで精緻で、有機的な音楽を書いていたなんて、今まで意識したことがありませんでした。
バーンスタインがベートーヴェンについて、「ある音のつぎに、どの音が来るべきなのか。その問いについて、ベートーヴェンほど正しい音を選んだ作曲家はいません」と語っていましたが、私はこの「仮面舞踏会」に関して、まったく同様のことをヴェルディに感じました。
歌手たちのこと
この類まれなオペラを実現させた歌手たちのことも書いておかなければいけません。
主役のリッカルド役を歌ったアゼル・ザダという歌手は、ただ、この日、あまり調子が良くなったのでしょう。
高音域がとくに辛そうで、声がひっくり返るのではないかと心配になるくらいでした。
きっと、本人としても非常に不本意だったはず。
主役にもかかわらず、ソロのカーテンコールのときにも2、3回客席へ頭をさげるとすぐに舞台袖にさがってしまって、それ以降、ソロのカーテンコールはありませんでした。
歌手は生身の音楽家ですから、きっとそういう日もあります。
こればかりは仕方ありません。
それでも、フィナーレでの歌唱は心を打つものがあって、いつか好調のときの声を聴いてみたい人です。
ヒロインのアメーリアを歌ったのは、ジョイス・エル=コーリーという歌手。
このひとの歌を聴いて思ったのが、ムーティはそれぞれの登場人物のキャラクターを深く、深く理解させてから歌わせているのだろうということ。
アメーリアは、夫が居ながらも夫の親友であり上司であるリッカルドに恋をしてしまうわけですが、いっぽうで、あくまで貞操を守り、その恋をあきらめようと懸命に神に祈り、また、裏切りを夫にとがめられて死を求められたときにも、最後の願いとして子どもに会わせてほしいと母親の情愛の深さをたたえる、非常に気高い精神の持ち主でもあります。
そうした高潔さが、歌い方、そして、声そのものにもしっかりと表れていて、聴いていて、とても心打たれました。
この役は、こうでなければ説得力がまるでなくなってしまいます。
主役のリッカルド役が不調だった一方で、その親友であり、最後には敵となってしまうレナート役の好演はいちだんと光りました。
歌っていたのは、セルバン・ヴァシレという歌手。
この人の健闘が、この公演全体を引き締めていたのは間違いありません。
素晴らしい歌唱でした。
第1幕で活躍する占い師のウルリカ役は、ユリア・マトーチュキナという歌手。
この歌手も文字通りの大活躍。
第1幕のあと、カーテンコールで会場から大喝さいを浴びました。
それから、私にはとくにオスカル役の素晴らしさが忘れられません。
私がこの日の歌手たちを思い出すなかで、真っ先に思い出されるのが、このオスカル役の輝きです。
歌っていたのがダミアナ・ミッツィという歌手。
この役は、どこかモーツァルトの「フィガロの結婚」のケルビーノのような存在感があって、そのことが音楽的に非常に深く理解されているようで、このムーティの「仮面舞踏会」にいっそうの古典的普遍性をあたえることに大きな貢献をしていました。
ソロ・カーテンコールのときには、おおきくなったお腹を抱えてみせて、そのとき初めて、彼女が妊娠中であると知りました。
歌唱そのものが傑出していただけに、あれは感動的なカーテンコールでした。
そのほかの日本人歌手たち、それから東京オペラシンガーズの合唱も、どこを聴いてもまったく隙のない水準で、この稀有な「仮面舞踏会」をしっかりと支えていました。
オーケストラも、国内オーケストラのコンサートマスターや首席奏者などの顔がたくさん見られ、たいへん豪華な顔ぶれになっていました。
ムーティ81歳、至高のヴェルディ
このオペラは「リッカルド、あなたの気高い心を平安に、うつくしい夢のなかに安らいでください。けがれなき世界の愛はこの王宮にあり、あなたの虜です」というような歌詞ではじまるのですが、「仮面舞踏会」の主人公もリッカルドなら、ムーティの名前も「リッカルド」。
その歌詞の賛美がそのままムーティと重なるようにも感じられて、開幕するや少しほほえましく感じられました。
ムーティは御年81歳ですので、「仮面舞踏会」のように3時間前後もかかるオペラを指揮するのに、さすがに椅子のようなものを使うのだろうと思っていたのですが、なんと、立ったままの指揮でした。
まったく年齢を感じさせないとはこのことで、激しいアクションこそなくなったものの、ある種の若々しさを今も失わない姿に驚きます。
それでもここに書いた通り、音楽はまったく特別なものに昇華されていて、2000年代初頭は、正直、ムーティのコンサートを退屈に感じることが度々あったのですが、今ふりかえれば、この境地への移行期だったのでしょう。
この「仮面舞踏会」は、1990年代にスカラ・フィルとやったコンサートで聴いた、若くて情熱的だったムーティの面目躍如たる音楽とおなじくらい、私のムーティ体験のなかで強く印象に残るもののひとつになりました。
オペラの幕切れ、リッカルドがレナートに刺され、それでも、自分に復讐をしようとしたもの全員を赦免すると言い残して息絶える場面、「このように偉大で寛大なこころを、どうぞ慈悲深い神よ、お守りください」という合唱が静かに歌われます。
“ 抑制と調和 ”の音楽が、3幕の長い旅路の末に、ついにこの合唱に到達した途端、わたしは不意に涙があふれそうになりました。
ムーティに泣かされるのは、コロナ禍のウィーン・フィルとの来日公演以来、2回目です。
この公演は、わたしのイタリア・オペラへの価値観をひっくり返されるものとなりました。
ムーティによる、オペラにおける、この古典的な造形、詩のような音楽づくりは、最近リリースされたシカゴ交響楽団とのマスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」全曲のレコーディングにも共通する姿勢です。
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ムーティは、シカゴ交響楽団と「仮面舞踏会」もコンサートでやったようなので、その録音もリリースされることを切に願いたいです。
きっと、イタリア・オペラの演奏史での非常に重要なマイルストーンとなるはずです。
現在、すぐに聴けるムーティの「仮面舞踏会」は、彼がまだ30代、1975年に録音したものです。
現在のムーティの演奏を体験してから聴くと、いちだんと感慨深い録音です。
( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify ・ Line Music などで聴けます)
来年の東京春音楽祭ではオーケストラ公演があるようですが、是非、またコンサート形式オペラを指揮していただきたいと思います。
ムーティももう80歳をこえているわけですから、一回一回がとても貴重な来日公演です。
大切に聴きに行きたいと思います。
♪ムーティの公演をはじめ、お薦めのコンサートを「コンサートに行こう!お薦め演奏会」のページでご紹介しています。
判断基準はあくまで主観で、これまでに実際に聴いた体験などを参考に選んでいます。
また、実際に聴きに行ったコンサートのなかから、特に印象深かったものについては、「コンサートレビュー♫私の音楽日記」でレビューをつづっています。
コンサート選びの参考になればうれしいです。
♪このブログでは、オンラインで配信されている音源を中心にご紹介しています。
オンライン配信の音源の聴き方については、「クラシック音楽をオンライン(サブスク定額制)で楽しむ~音楽好きが実際に使ってみました~」のページでご紹介しています。