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反省しています。
もう何十年ものあいだ、お正月に日本にやってきては、シュトラウス・ファミリーの作品をあちこちで演奏していた、ウィーン・リング・アンサンブル Wiener Ring-Ensemble。
公演のチラシを目にするたびに、私はそれを本家ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートの「地方巡業」版、もっと言えば、出稼ぎのように見ていました。
そのうち機会があったら聴きに行けばいい、そんな風に思っているうちに歳月は過ぎ、ホルンのヘーグナー、クラリネットのシュミードル、フルートのシュルツといった名手たちがいなくなり、いっそう足は遠のくばかり。
いよいよ今度は、創設時からのリーダーであるライナー・キュッヒルが抜けるというので、遅ればせながら、あわてて、初めて彼らの実演にふれてきました。
目次(押すとジャンプします)
ウィーン・リング・アンサンブル 2026年来日公演
先に挙げたような歴史的な名手たちはもういませんが、それでも、ウィーン・フィルの顔として馴染みのある奏者たちばかり、9人のアンサンブルです。
ライナー・キュッヒル (ヴァイオリン)
ダニエル・フロシャウアー (ヴァイオリン)
ハインリヒ・コル (ヴィオラ)
シュテファン・ガルトマイヤー (チェロ)
ミヒャエル・ブラデラー (コントラバス)
カール=ハインツ・シュッツ (フルート)
アレックス・ラドシュテッター (クラリネット)
ヨハン・ヒントラー (クラリネット)
ロナルド・ヤネシッツ (ホルン)
私が聴いたのは2026年1月4日(日)14時からおこなわれた公演で、松伏町中央公民館「田園ホール・エローラ」という会場。
芥川也寸志(1925-1989)さんがホール創設に関わったそうで、代表作「エローラ交響曲」からの名称がホールに冠されていました。
初めて行った会場でしたが、500席ちょっとという、9人の室内楽を聴くのに良いサイズのホールでした。
ライナー・キュッヒル
「イタリア人の指揮者でシュトラウスをやるのは、もうまっぴらごめんだ」。
何十年も前、そんなような過激な批判をはっきり口にしていたのが、当時ウィーン・フィルのコンサートマスターだったライナー・キュッヒル。
そのインタビューが載った本を読みながら、その歯に衣着せぬ物言いにおどろいたことをおぼえています。
その後も彼は、イタリア人指揮者ムーティなどの指揮でニューイヤーコンサートに出ていたので、プロフェッショナルというのは大変なものだと思ったものです。
ウィーン・リング・アンサンブルの演奏がはじまって、やはりまず耳目をひきつけるのは、コンサートマスターのキュッヒル。
その圧倒的な存在感。
彼の聴かせる音は、このシュトラウス・ファミリーの音楽にあっても、常にどこか張ったものがあって、たとえば大昔、ウィンナ・ワルツを弾き振りして一世を風靡したウィリー・ボスコフスキー(Willi Boskovsky,1909-1991)のような、ほほ笑みの音楽というよりは、作品の芸術性にたいする厳しい緊張感がこちらにも伝わってくるような音。
ああいう発言をはっきりとするだけの「人となり」が、音からも感じられます。
ただ、それは決して「冷たい」というわけではなくて、作品に真摯にむきあう、そのひたむきさ、厳しい自己批評が音に表れているようでした。
太陽系のようなアンサンブル
そうした厳しい姿勢のキュッヒルを中心に、けれども、その周りに集う他のメンバーたちは、むしろそんなキュッヒルをおおらかに、あたたかく包み込むような、絶妙なバランスがアンサンブルのなかに成立していて、まるでひとつの太陽系のよう。
このアンサンブルで、もっとも目立つのが、若いフルートのカール=ハインツ・シュッツ。
やんちゃ坊主のような彼は、実際、打楽器などの鳴り物もやったり、このアンサンブルの華だと思いますが、そのフルートの音色の美しさたるや、言葉のかぎりを尽くしても言い表せないものがあります。
彼の音は、このアンサンブルに圧倒的な輝きをもたらしています。
しかも、その輝きが決して装飾的なものに陥らず、つねに素朴な優しさを失わず、ときに憂いを感じさせるほどの抒情があるところに、いっそう耳を奪われます。
キュッヒルとシュッツ、この2人に比べれば、ほかのメンバーは控えめな立ち位置にあるように見えますが、実際はとんでもありません。
信じられないようなアンサンブル、音楽を、メンバーひとりひとりが奏していました。
たとえば、演奏中にほとんど笑わないコントラバスのミヒャエル・ブラデラー。
彼の演奏を、ひたすらにじっと聴いてみてください。
三拍子のワルツの1拍目を「ズン」と弾くだけでさえ、その音量の増減の繊細さ、タイミングの精妙さたるや、1小節として同じこと、機械的な瞬間がありません。
たった1音が唖然とするほど音楽的で、変幻自在です。
彼はいたずらに難しい顔をしているわけではありません。
ウィンナ・ワルツ、その人間性
ちょうど昨年の大晦日、大好きなジョナサン・ノット(指揮)東京交響楽団のジルベスターコンサートを聴いて、その1曲目にシュトラウスのポルカ「観光列車」がありました。
あれを聴いていて、どうしてこうもウィーンの音楽家たちのやるポルカとまったく別物に聴こえてくるのか、不思議に思ったものです。
そうして、今回、このアンサンブルを聴いていると、その理由が少しわかるような気がしました。
ウィンナ・ワルツがウィンナ・ワルツらしく響いてくるのは、なにも生まれ育った環境がすべて、という単純な理由だけではありません。
彼らのアンサンブルを体験してわかったのは、シュトラウスのポルカやワルツというのは、こちらが思っているより、遥かに繊細な音楽だということです。
ウィーン・リング・アンサンブルの奏するワルツの、その表情の移ろい方、小節ごと、ときには1拍ごとに異なるテンポの揺れ。
いったいどうしてこんなことが可能なのか、脱帽するしかありません。
前提として、ウィンナ・ワルツに対する共通の感覚、強い共感があるということ。
そのうえで、作品の旋律が生み出す繊細な「揺れ」を、全員で共有し、感じているからこそ、その瞬間、瞬間に、アンサンブル全体が音楽と同時に揺れ動くわけです。
これは一般化したり、数式化することのむずかしい、極めて再現性の低い範疇のものであって、いずれAIが音楽の分野にも浸食してきたときであっても、決して到達のできないもの。
その意味で、ウィーン・リング・アンサンブルのやっている音楽は、本質的な意味で“ 人間的な ”ものです。
それゆえに、こうした音楽こそが、これからの私たちにとって、何物にも代えがたい、もっとも大切なものになってくるはずです。
シトロンの花咲くところ
コンサートでは10曲以上の作品が演奏され、その1曲ごとに言葉を添えるほどの力が私にはないので、特に印象深かった作品を選んでつづっておきたいと思います。
前半で最も印象深かったのは、J.シュトラウス2世:ワルツ「シトロンの花咲くところ」。
この作品の序奏が始まった瞬間の、こぼれるような抒情。
その美しさへのキュッヒルの切りこみ方には、聴き手の胸を打つ、感動的なものがありました。
そして、主部に入っても、全編に漂ようノスタルジックな情感。
それは、ウィンナ・ワルツの本質が決して、ただ「明るい音楽」というだけではないことを教えられるものでした。
ウィーンの市民、新ピツィカートポルカ
後半の、そして同時に、コンサート全体のひとつのクライマックスは、ツィーラー:「ウィーンの市民」に置かれていました。
ワルツやポルカばかりが何曲もならぶプログラムのなかで、こうして、しっかりとクライマックスを築けるということが、このアンサンブルの秀逸さを証明しているように思います。
作品の長さはもちろんですが、それと同時に、演奏の集中度の高さ、開放的な響きと勢いのよさ、どれもこれもがひとつの頂点を築いていました。
聴いていて、知らず知らずのうちに体が自然に揺れてしまうほど、すっかり音楽のなかにひきこまれてしまいました。
この「ウィーンの市民」のクライマックスのあとも、実にプログラムが上手に考えられていて、管楽器の4人は舞台から下がり、弦楽器だけの五重奏へと編成が小さくなります。
シュトラウスの「新ピチカート・ポルカ」です。
第一級の奏者たちのピチカートというのは、ほんとうに音楽の愉悦そのもの。
シャンパンの泡のように、たくさんの音楽がはじけて、その香りに満たされます。
途中、カール=ハインツ・シュッツがグロッケンシュピールを抱えながら登場する余興もありましたが、笑いのなかにも品があって、音楽を邪魔しません。
こうした品位も、彼らの音楽性の高さゆえでしょう。
シェーンブルンの人々
そして驚いたことに、次のプログラム、ランナーの「シェーンブルンの人々」もまた、弦楽五重奏のままで演奏されました。
「ウィーンの市民」のクライマックスのあとの下降線は、「新ピツィカートポルカ」を通って、この弦楽五重奏版の「シェーンブルンの人々」へと流れ込むわけです。
弦楽五重奏での「シェーンブルンの人々」は、いつも耳にしているオーケストラでの演奏よりも、はるかに鄙びた味わいになり、この作品のもつ素朴な魅力、あたたかな抒情がよりストレートに伝わってきました。
どうして彼らがこれを管楽器抜きでやろうとしたのか、その意味がわかる演奏でした。
もっと言えば、この作品はオーケストラ版よりも、こうしたアンサンブルで聴かれる方が作品にふさわしいようにすら感じられました。
もちろん、これは編成の問題だけでもありません。
というのも、この曲を弦楽五重奏で聴いたのは、今回が初めてというわけではなくて、ブダペスト四重奏団のヴァイオリニストだったアレクサンダー・シュナイダー(Alexander Schneider, 1908-1993)が弦楽五重奏でやった録音をCDで持っています。
シュナイダー五重奏団の演奏も素晴らしいのですが、あのときのウィーン・リング・アンサンブルの、しっとりとした抒情性はまったく別格のもので、シュナイダー五重奏団といえども、キュッヒル率いる弦楽五重奏が魅せた、あの味わいにはどうにも及ばないように感じられます。
つまりは、ウィーン・リング・アンサンブルの演奏そのものが、きわめて出色のものだったということです。
あれは、ほんとうに美しい弦楽五重奏でした。
ニコ・ポルカ
さらにダメ押しで魅了されたのが、プログラム最後の曲、管楽器奏者たちが戻ってきてのシュトラウス:「ニコ・ポルカ」。
この作品がこんなに奥行のある、多様な音楽的表情をもつ作品だと、どれくらいの人が知っているでしょうか。
少なくとも私は、全く思ってもみませんでした。
ウィーン・リング・アンサンブルの演奏で聴く「ニコ・ポルカ」は、情熱的な音のなかには憂いがあり、悲しさのなかには喜びが同居していて、それはもう、もとをたどれば、あの天才モーツァルトの泣き笑いのような気高い音楽に通じる、オーストリアの、ウィーンの音楽の本質を感じさせられる、圧巻のポルカ演奏でした。
「イタリア人の指揮者でシュトラウスをやるのは、もうまっぴらごめんだ」。
なるほど。
これだけの音楽をやられてしまったら、仮に帝王ムーティであったとしても、もう、笑うしかないでしょう。
アンコール
このあと、アンコールが3曲。
シュトラウスⅡ世:ポルカ「狩り」、「美しく青きドナウ」、そして、シュトラウスⅠ世:「ラデツキー行進曲」がありました。
ここら辺は、ほんとうに本家ニューイヤーコンサートのようにやってくれるのだと感心しましたが、やはり一番心打たれたのは「美しく青きドナウ」。
作品の冒頭で、弦楽器のしずかなトレモロが響いた、あの瞬間のホールの空気感。
名曲というのは凄いもので、空気が一変するというのはまさにこのことです。
心のなかで湧き立っていたものがすっと静まり、神聖で、厳かな世界に包まれました。
以前、イタリアのオルガン奏者ギエルミのコンサートで、さまざまな作曲家のオルガン曲のあと、バッハの作品を演奏しはじめた途端、それまでの作品の余韻が一斉にわきにどいて、バッハの音符に道があけられていく光景を目にしたことを思い出します。
まさしく、「美しく青きドナウ」でも同じことが起きました。
「ドナウ」こそは、ウィンナ・ワルツの王座にある作品。
この作品はまったくもって別格の存在である、というのを、はっきりと教えこまれる演奏でした。
エピローグ
遅くなりましたが、この日演奏された曲目は以下のとおりです。
J.シュトラウス2世:ワルツ「芸術家の人生」
ヨーゼフ・シュトラウス:
ポルカ・シュネル「おしゃべりなかわいい口」
J.シュトラウス2世:ワルツ「シトロンの花咲くところ」
J.シュトラウス2世:芸術家のカドリーユ
J.シュトラウス1世:
リストの主題による狂乱のギャロップ
(休憩)
J.シュトラウス2世:
オペレッタ《ヴェネツィアの一夜》ワルツ・メドレー
J.シュトラウス2世:ポルカ・シュネル「突進」
C.M.ツィーラー:ワルツ「ウィーン市民」
J.シュトラウス2世:新ピツィカート・ポルカ
J.ランナー:ワルツ「シェーンブルンの人々」
J.シュトラウス2世:ニコ・ポルカ
【アンコール】
J.シュトラウス2世:ポルカ「狩り」
J.シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」
J.シュトラウス1世:ラデツキー行進曲
冒頭に書いた通り、このアンサンブルの創設者であるライナー・キュッヒルは、この一連の公演でアンサンブルから引退するとのことです。
1950年、オーストリアのお生まれだそうなので、今年76歳ということでしょうか。
ウィリー・ボスコフスキー(Willi Boskovsky,1909-1991)、ゲアハルト・ヘッツェル(Gerhart Hetzel、1940-1992)といった人たちにつづく、ウィーン・フィルの名コンサートマスターだったキュッヒル。
今さらながら、その凄さを思い知らされました。
彼の音、彼の姿勢には、たえず厳しさと緊張感があって、それは一見、シュトラウスの音楽と相いれないような要素にも感じられるのですが、実際には、作品の芸術性を際立たせ、アンサンブルを引き締め、そこに生まれる演奏への鋭い自己批評の精神の源泉であるとわかります。
キュッヒルの不在は、このアンサンブルにとって大きな柱を失うということであり、大きな試練になるのは間違いないでしょう。
いっぽうで、今回の演奏で実感したのは、ひとり残らず、すべての奏者が傑出しているということ。
弦楽器、管楽器、どの奏者も、ひとりひとりが極めて音楽的であり、その点で、このアンサンブルの未来は明るいです。
キュッヒルら、ウィーン・フィルの歴史的な名手たちの精神は、この柔軟で格調高いアンサンブルのなかにはっきりと刻みこまれているのであって、その刻印は、この先も受け継がれ、響きのなかに在りつづけるはずです。
その姿はまさに、彼らの母体であるウィーン・フィルの精神をも彷彿とさせます。
時代の流れのなかで、ウィーン・フィルもずいぶん以前と変わりましたが、いっぽうで、他の団体以上に「変わらない何か」を強く感じさせてくれるのもまた、ウィーン・フィルです。
その意味で、ウィーン・リング・アンサンブルは、ウィーン・フィル以上にウィーン・フィルらしい精神を持っているアンサンブル、と言ってもいいくらいかもしれません。
もしかしたら、キュッヒルは、このアンサンブルのなかに、ウィーン・フィルのエッセンスのようなものを凝縮させたかったのかもしれません。
ウィーン・リング・アンサンブル。
数年前にテレビで視聴していたのに、これほどの音楽をやっていたとは聴き取れませんでした。
生演奏にふれておいてよかった、心からそう思います。
これだから、クラシックというのは、実演に触れないとわかりません。
こうなると、ヘーグナーやシュミードル、シュルツがいた時代の演奏は、もう、信じられないような豊穣なアンサンブルだったのではないかと容易に想像され、ただただ、ため息が出ます。
素晴らしいアンサンブルを結成し、長年にわたり導いたライナー・キュッヒル氏に、心からの感謝を。
◎ウィーン・リング・アンサンブルの録音は、残念ながら、目下ほとんどが廃盤状態です。
その代わり、ライナー・キュッヒル氏のヴァイオリン・ソロを味わえる録音として、アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルによるR・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」をご紹介しておきます。
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