シリーズ〈交響曲の名曲100〉、その第13回です。
今回はモーツァルトの全作品のなかでも、とりわけ人気の高い交響曲第40番を。
モーツァルト32歳の1788年、6月に仕上げた第39番につづいて、7月に第40番が完成させれました。
この曲のモーツァルトによる自筆譜は、後に、あのブラームスが所有していたことでも有名です。
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モーツァルトの短調
このシリーズの第3回「モーツァルト:交響曲第25番」や「弟子と師匠が同じピアノ曲を弾いたら」というエッセーでも書きましたが、“ モーツァルトの短調 ”という言葉があるくらい、モーツァルトが短調を選択するのは極めてめずらしいです。
それだけに、彼があえて「短調」を選択したときは、そのほとんどが特別な傑作の場合が多いです。
交響曲では映画『アマデウス』でも使われた第25番と、今回の第40番の2曲だけが短調で、しかも、どちらも「ト短調」が選択されています。
トランペットとティンパニー、そして、クラリネット
この曲の外見で目立っているのが、オーケストラの編成からトランペットとティンパニーが外されていることです。
それがどういうことなのかを考えるときに、このシリーズ第1回のハイドンの『マリア・テレジア』を思い出してみてください。
あの音楽で祝祭的な雰囲気を高めていたのが、トランペットとティンパニーという組み合わせでした。
つまり、ここでモーツァルトは、それを嫌ったということになります。
実は当初、さらにクラリネットまで外されていました。
こうして、弦楽器の他は、ホルン、フルート、オーボエ、ファゴットというとても絞った楽器編成にすることで、厳しい音の響き、峻厳な世界を目指したようで、実際、この曲はモーツァルトの作品のなかでも極めて悲劇的です。
この曲には、あとになってクラリネットを追加した楽譜も作られていて、そういう楽譜があらためて作られているということが、モーツァルトの生前にこの曲が演奏された大きな証拠としても挙げられているのですが、クラリネットのやわらかで、でも、どこか暗い色彩はやっぱり必要だったということでしょうか。
ただ、クラリネットが入ることで曲の厳格な世界観が弱まるとして、クラリネットなしの最初の版で演奏をする指揮者も多いです。
クラリネット入りの版を使うか、クラリネットなしの版を使うかは、指揮者や演奏家の解釈によって、さまざまな選択がされています。
多額の借金の謎
(貧しさは)すばらしく、また恐ろしい試煉であり、そのために弱い人間は下劣な人間に、強い者は気高い人となる。
運命が下劣な人間か、それとも半神をつくろうとするとき、いつも人をそこに投げこむ坩堝である。ビクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』( 新潮文庫、佐藤 朔 訳)
晩年のモーツァルトの借金地獄を思い起こすとき、私は上のユゴーの一節がいつも思い出されます。
モーツァルトは晩年、かなりお金に困っていたことがわかっています。
モーツァルトは筆まめで、『モーツァルト書簡集』とか『モーツァルトの手紙』という本がたくさん出ているくらい、手紙がいろいろと残っているのですが、晩年に書かれた手紙には、お金がなくて困っていることを訴えるもの、借金をお願いしているものがたくさんあります。
ところが、近年の研究では、晩年のモーツァルトの収入が決して少なくなかったということがわかってきました。
それどころか、かなりの高収入を得ていたことがわかってきています。
けれど、その一方で残っている、借金の申し入れの手紙の数々。
そして、死後、実際に残った多額の借金。
その収支のバランスが崩れた理由もまた、謎のままです。
研究者によれば、1788年にオーストリアが戦争に突入したこと、1789年のナポレオンによるフランス革命など、社会の変化によって物価が高騰したり、貴族たちをあてにした演奏会が難しくなったというような社会情勢、あるいは、奥さんの病気療養のための経済的負担という家庭の事情、さらには、この頃のモーツァルト作品が難解であるという風評が広まっていたことなど、さまざまな要因が推測されています。
いずれにせよ、天才モーツァルトがお金に困っていたのは紛れもない事実です。
そして、ユゴーの言葉のように、モーツァルトは運命が「半神」をつくろうと貧しさのなかに投げこまれたようにも思えます。
そうした人生の陰が、モーツァルト晩年期の作品に深い陰影、そして、青い空のはるか彼方へ消えていく雲のような透明度という、相反するような深みと高さを与えたように思えてならないです。
🔰初めての『第40番』
何といっても出だしから有名な音楽なので、まずは第1楽章から聴いてみてください。
前の第39番まであった「序奏」はなくて、いきなり伴奏と主題から始まります。
この伴奏型からのさりげない開始も、ほかにあまり例を見ない天才的なものです。
第2楽章アンダンテは、この頃のモーツァルトらしい透明な音楽。
そして、第3楽章アレグレット、第4楽章アレグロ・アッサイ(十分に快活に)と楽章が進むほど、その劇的なものが凝縮していきます。
この音楽には明らかに、なにか悲劇的なものがあって、そこが普遍的な魅力となって、胸に迫ります。
そして、やはりこの曲ではおしまいの第4楽章に、その劇的なものが凝縮されています。
この音楽の向かうところを知るうえで、フィナーレを知ることは意味のあることです。
なので、第1楽章とならんで、第4楽章を優先的に聴きこんでみてください。
私のお気に入り
この曲は名演奏の宝庫といっていい一曲で、名指揮者たちが渾身の名演奏をのこすレパートリーのひとつです。
星の数ほどの名演奏の録音が残っているので、私のものを参考にしつつも色々と聴いてみてください。
《アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団》
私が初めてこの曲と正面から出会ったのは、中学生のころ、ラジオで流れてきたトスカニーニ指揮NBC交響楽団の演奏を聴いたときです。
ラジオから流れてくるモーツァルトの、最初の有名な第1楽章も耳を奪われましたが、楽章が進んで、第3楽章や第4楽章の劇的な音楽には特に心を鷲掴みにされました。
アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)はイタリア生まれ、20世紀前半を代表する大指揮者。
NBC交響楽団というのは、アメリカの放送局のNBCが、トスカニーニのために作ったオーケストラで、彼の引退とともに解散となりました。
ちなみに、解散したオーケストラは、しばらくは「シンフォニー・オブ・ジ・エア」という別の名前の団体として活動していました。
そして、このシンフォニー・オブ・ジ・エアが、第2次大戦後に日本を訪れた初めての海外オーケストラとなります。
さらには、その日本公演を聴いて衝撃を受けたのが、まだ若かった小澤征爾さん。
その衝撃をきっかけに海外へ飛び出すことになります。
トスカニーニに話を戻すと、彼自身はあれほどの大指揮者でありながらモーツァルトを苦手としていたようで、「モーツァルトの音楽は完璧すぎて手が出せない」とか、「自分よりブルーノ・ワルターのほうがうまい」などとまで言っていたそうです。
でも、実際に残されたものを聴いてみると、その言葉とは関係なく、彼にしかできない、劇的で峻厳なモーツァルトが実現されています。
いろいろな演奏家のいろいろなモーツァルトを知った今でも、このトスカニーニ指揮のモーツァルト40番は、やはり特別な思い入れがあります。
特に第3楽章の強烈なレガート、それが幾重にもたたみかけてくる嵐のような音楽は、忘れようのない強烈な印象をわたしのなかに残しています。
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《ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィル、コロンビア交響楽団》
トスカニーニが「自分よりワルターの方がいい」と言っていたワルターの録音。
マーラーの直弟子だったワルター(1876-1962)には、この曲の録音がいくつも残っていて、そのどれもが立派な録音です。
ウィーン・フィルとの1952年の歴史的な録音をご紹介しようと思ったんですが、オンライン配信がないようです。
これは今でも新しいCDで簡単に入手できますが、そちらよりも「 4988009287959 」の番号で検索して、1989年ごろに発売された古いCDで聴くと本来の音を聴くことができます。
晩年に再録音したコロンビア交響楽団とのものは、最近丁寧にリマスターしなおされた良いものが出ていて、オンライン配信もありますので、そちらをリンクしておきます。
静けさと劇的な厳しさが心に刺さります。
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《ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン》
第3楽章の速いテンポ、そして第4楽章のあえて音楽の流れを断ち切る休符の扱いなど、革命児アーノンクールの特徴が前面に出ています。
外見上はそうしたギクシャクした造形が目立つけれど、でも、そこには音色の陰影の深さもあったり、抑制された美しさも随所にあります。
いろいろやりながらも、アーノンクールがモーツァルトをとても神聖に扱っているのがわかる、独自の美しさのある演奏。
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《カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ベルリン・フィルハーモニー》
「すべての決断は、愛のもとに決められていくべきです」と語っていた、“愛”の人ジュリーニらしいモーツァルト。
とってもゆったりとしたテンポで、この曲の悲劇性よりも、和声のうつろいの美しさ、人が生み出す音楽のあたたかみを伝える演奏。
この劇的な音楽から、そうした愛に満ちた音色を読み取っているという点で、他の演奏とは一線を画した独自のモーツァルト。
大好きな録音です。
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《ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団》
ジョージ・セルはハンガリー生まれの巨匠。
彼の指揮したモーツァルトはどれも素晴らしいものばかりで、この40番にも脱帽の録音がいくつか残っています。
私が最初に聴いたのはスタジオ録音のもので、その繊細を極めた表現の数々、とくに旋律の裏で流れていく和声の繊細な明滅におどろきました。
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このコンビは1970年に来日公演を行って、たいへんな名演奏の連続で圧倒的な印象を残したそうです。
残念なことにその時点ですでに病におかされていたセルは、帰国直後に急逝してしまいました。
その1970年の来日公演の録音も残っているので、ここにご紹介しておきます。
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《クラウディオ・アッバード指揮モーツァルト管弦楽団》
モーツァルト管弦楽団というのは、イタリアの名指揮者クラウディオ・アッバードが晩年に立ち上げた、若者が中心のオーケストラです。
アッバードはこのオーケストラとモーツァルトの交響曲をたくさん再録音しましたが、いちばん素晴らしいと思うのがこの第40番です。
現代の楽器を使いながらも古楽奏法を随所にとりいれた「折衷」様式でのアプローチで、今現在、主流になっているアプローチのひとつです。
こうしたアプローチの最前線にいて、且つ、これ以上ないというところまで到達してしまうというのが、やはり彼が21世紀初頭を代表する指揮者だったことをあらためて認識させられる録音です。
オーケストラの人数をしぼった編成で、室内楽的な親密さを基調にしているものの、劇的な気配が支配していて、特に終楽章での力の入れ方と抜き方に悪魔的魅力も感じさせます。
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