絶好調のコンビ、ジョナサン・ノット指揮する東京交響楽団の定期演奏会を聴いてきました。
このブログの「お薦めのコンサート」のページでは、「どのコンサートに行くか迷ったときはジョナサン・ノット指揮する東京交響楽団のコンサートに出かけてみてください」と何度も書いていますが、そんななかで、珍しくお薦めするか迷ったコンサートが、このマーラーのコンサートでした。
「完売御礼」となった人気公演でしたが、結果的には、やはり私にはあまり納得できないマーラーでした。
私は、基本的にネガティブな内容は書かないことにしているのですが、このブログでは普段からこのコンビの公演をとても強く推していますし、彼らの公演についてのレビューも非常に多くの方に読んでいただいています。
ですので、今回は例外的に、納得できなかったこの公演についても、いつもと同様、正直につづっておくことにしました。
当日のプログラム
これまでに何度か、ジョナサン・ノットが指揮するマーラーを実演で体験することができていますが、どうも、私にはノットのマーラーはあまりに攻撃的、直線的過ぎて、平板な音楽に聴こえてしまうレパートリーです。
それでも期待せずにはいられないほどの好調ぶりなのが、このコンビの凄いところで、やはり、今回も会場に出かけずにはいられませんでした。
当日のプログラムは以下のものでした。
2022年7月16日(土)18:00@サントリーホール
ラヴェル:海原の小舟
ベルク:七つの初期の歌
(S,ユリア・クライター)
マーラー:交響曲 第5番 嬰ハ短調
定期演奏会でしたので、アンコールの類いはありませんでした。
マタチッチの言葉
この日の公演は、何といってもメインはマーラーの交響曲第5番嬰ハ短調でしたので、そこから触れていきたいと思います。
ずっと以前、テレビで、ユーゴスラヴィア出身の伝説の指揮者ロヴロ・フォン・マタチッチがNHK交響楽団をリハーサルしながら、少しおどけた調子で、「わかるね?オーケストラには間違えていいところと、間違えてはいけないところがあるね。そして、さっきのところは、間違えてはいけないところだ」とユーモラスに諭しているのを観たことがあります。
この日のマーラーの交響曲第5番でいえば、さしずめ冒頭のトランペットのソロ、これは何があっても「間違えてはいけないところ」でしょう。
そして、この日、まさにその冒頭で、トランペットの音がかすれ、外れてしまいました。
スタッカートつきでpからsfまでクレッシェンドさせるように書き込まれたマーラーの指示を、かなり徹底するような吹き方だったのは、おそらくノットの要求だったのだと思いますが、結果的にあれが吹きづらかったのでしょうか。
会場で聴いていて、時が止まったかと思うくらい驚き、唖然としました。
もちろん、みんな人間ですからミスもするわけで、ソロを吹いたトランペット奏者の心の内たるや、想像するだけでも辛いものですが。
以前、ダニエル・バレンボイムがブルックナーの交響曲第4番『ロマンティック』を指揮するのを実演で聴いたときは、冒頭から象徴的に活躍するホルンがソロの度に音を外してしまい、結局、その傷を挽回することは最後の最後まで出来ずにおわりましたが、巨匠マタチッチの言う通り、演奏というのはそういうもので、取り返すことが困難なミスというのは存在します。
その後もトランペットは不調のまま、聴いているこちらがずっとハラハラするほどで、途中、指揮者のノットがあきらかに憤って、感情的に身振りが激しくなっているのが伝わってくるほどの場面もありました。
このマーラーの5番では、第3楽章でソロを吹くホルン奏者と、冒頭のファンファーレを担当するトランペット奏者が、演奏後にとりわけ独立して拍手を浴びますが、この日、カーテンコールのあいだもトランペット奏者をひとりで立たせることをほとんどしなかったのは、それでも、ノットなりの気遣いだったのでしょう。
そうした危うい出だしで開始されることとなった第1楽章は、けれども、意外なくらい音楽の腰は据わっていて、ノットは、例のごとくマーラーの複雑なスコアを綿密に、そして刺激的に描き出していました。
しかも、ノットのマーラーを聴くたびに感じた、いつものやや強引な感じがせず、音楽の発展が有機的で、それでいて大変な迫力と熱量もあって、これまでのノットのマーラー解釈のなかでは、特に説得力のある楽章で耳をひかれました。
ですが、「オーケストラには間違えてはいけないところがある」、もう、それに尽きる第1楽章でした。
第2楽章
ただ、この日、彼らのマーラーに納得できなかったのは、そうしたオーケストラ側の問題だけでもなかったというのが私の印象で、ノットのマーラー解釈、第2楽章に入ったあたりから、やはり首をかしげずにはいられなくなりました。
第1楽章からほとんど間を空けずに飛び込んだ第2楽章。
ノットの熱量と勢いも凄いし、それを実現しようと食いつくオーケストラも凄いのですが、冒頭からあまりにもアグレッシブ過ぎて、私には次第に、まるで第1楽章が形を変えて、もう一度演奏されているように聴こえてきました。
実際、あそこに第1楽章と第2楽章の音楽的ちがいはあったのでしょうか。
この第2楽章では、後半、とても劇的な展開がおとずれます。
フィナーレ第5楽章のクライマックスが突如、第2楽章に割って入ってきて、輝かしい勝利と光に満ちた結尾を「予言」する光景があらわれます。
ところが、ノットのアプローチだと、これまでの過程でアクセントに満ちた音楽がずっと続いたままなので、第5楽章が挿入される場面が、ほかの要素とほぼ並列、たくさんのドラマのなかのひとつのエピソードのように聴こえてしまいます。
ノットがそう考えているならまだしも、そこではいっそうの熱量と音量で演奏させていたので、ここを彼も大きな頂点のひとつとみなしているのは間違いなかったと思います。
いかんせん、それへ至るまでの過程に「クライマックスが多すぎて」、ほとんど効果があがっていないように聴こえました。
第3楽章
第3楽章は、この交響曲のなかで、中間点を示す、シンメトリー構造の折り返し地点のような位置づけで、マーラー自身もこの楽章は独立した部分としてスコアに指示していたはずです。
それでもノットが引き出す音楽は、流動的なスタンスを変えてはおらず、聴くべきところはたくさんある演奏が展開されていて、それも、とても高水準なことをたくさんやってはいるのですが、やはり私には、これも第1&2楽章のエコーのように響きました。
もう、この時点で、自分がこの長大な交響曲のどこに立っているのか、わからなくなってしまいました。
第4楽章と2曲目のベルクのこと
カラヤンが生前この曲を指揮したときに「第3楽章までが至難の業」というようなことを言っていたはずです。
実際、それら3つの楽章がおわると、第4楽章には有名なアダージェットが来て、フィナーレには開放的なロンドがやってきます。
果たして、ノットもここで落ち着きを取り戻したりするのだろうかと耳を傾けてみました。
なるほど、淡泊なわけでもないし、情感もこもっているし、アンサンブルも整っていて随所に美しい音が鳴っているのですが、やはり、じっとしているときがないというか、常に変転していきます。
それはもちろん、ただ流転しているわけではなくて、それだけ細やかに対位法の綾をつむいでいるのだというのも聴いていてわかります。
多彩と言われれば、確かにそうです。
ただ、もっとしっとりとした「詩」があっていいのではと思ってしまいます。
これは、実は2曲目のベルクでも感じられたことで、もっと音楽が静けさのなかにたたずむ時間があってもいいのではと感じました。
あの2曲目のベルクでは、ユリア・クライターの独唱も素晴らしかったし、それ以上に、オーケストラ伴奏の美しさと雄弁さにおどろき、魅了されもしましたが、あまりに健康的なのは疑問でした。
後期ロマン派の残照、何かが爛熟して下降していくときの美しさ、昼の輝きというより夜の沈黙のようなうつくしさがある歌曲だと私は感じる音楽ですが、そうした面があまり感じられないノットの解釈で、そこに違和感がありました。
そして、このアダージェットもそうでした。
この楽章は、マーラーが妻となるアルマに捧げた愛の告白の音楽。
愛を語るときに、動きっぱなしというのはどうなんでしょう。
大切な言葉を言うときには、立ち止まったり、もっと「間」があったりするものではないでしょうか。
第5楽章
第5楽章フィナーレは、もう大団円の演奏で、終始、活発な音楽が展開されていきました。
一方で、この楽章はほんとうに演奏がむずかしいロンドだと以前から感じていて、どうしても「いつの間にか」クライマックスが来るという印象になる演奏が多く、音楽の設計が至難の業な楽章なのだと感じています。
ノットと東京交響楽団の演奏もやはりそうした印象になってしまいましたが、ただ、とにかくここに至るまでに何度も何度もクライマックスがありすぎたので、私なんかは聴き終わった後、ただただ疲れてぐったりとしてしまいました。
脈略をうしなってしまうと、どれだけ迫力があっても、それはほとんど喧騒に近くなってしまうものです。
ノットのマーラー
ノットのマーラーを聴くたびに感じるのは、きっと彼はマーラーの複雑で長大な交響曲を「ひとつ」の物語として、嵐のような勢いをもって、一気に描き出したいのだと思うのですが、1時間を大きく超える音楽を「一気に」聴かせるというのはどうしても無理があると感じてしまいます。
もちろん、こうした解釈もあっていいのでしょうが、私が不満に思うのは、他のレパートリーであれほど陰影を持ち、立体的に音楽を構築できる指揮者と、それを見事なまでに実際の音として実現できる優れた楽団が、どうしてマーラーとなると、これほど平板で一辺倒な音楽づくりに終始してしまうのかという点です。
ほかのコンビがこれほどの熱量でマーラーをやったら、手放しで感心しているかもしれませんが、でも、このコンビなら、もっともっと次元のちがうマーラーを体現できる日が来るはずで、私はいつもいつも「そのとき」を期待してコンサートホールに出かけていきます。
ただ、今回は、まだ「そのとき」ではなかったようです。
秀逸だったラヴェル
そんななかで、この日、いちばん魅了されたのは、いちばん最初に演奏されたラヴェル:『海原の小舟』でした。
これはもう、このコンビの面目躍如たるような精緻な演奏で、彼らの好調ぶりがはっきりと示された、すばらしい音楽でした。
その色彩とニュアンスの妙。
弦楽器群も金管群も、そしてパーカッションもハープもチェレスタも、それぞれに聴くべきところの多い充実した音楽を紡いでいました。
なかでも、とりわけ何度もハッとさせられたのが木管楽器群。
その音色は、このラヴェルでも、そして、ベルクやマーラーでも、“ ものを言う ”音色であって、その充実ぶりが際立っていました。
次は第6番《悲劇的》。でも、
コンサートホールで配布されたプログラム冊子には、ノットのインタビューが載っていました。
わたしは先入観なしで聴きたかったので、このインタビューは帰宅してから読みましたが、それによると、どうやら次のシーズンにはマーラーの第6番《悲劇的》が予定されているようです。
ですが、どうなんでしょう。
この第5番、このまま通り過ぎてよい演奏には思えませんでした。
ステージ上にはたくさんのマイクが立てられていたので、おそらくCDとしてリリース予定なのでしょうが、これもちょっとどうかと思います。
やはり、生演奏でしっかりと演奏できるようになって、それからレコーディングという方が納得がいきます。
来シーズン、6番に進むのではなく、特別演奏会でも何でもいいので、この5番の「やり直し」をしなければいけないのでは、とすら感じています。
カーテンコール
ノットと東京交響楽団のコンサートでは、終演後、オーケストラが引き上げたあとにも、会場からの拍手がおさまらず、ノットがひとり姿をあらわして拍手に応えるという光景がよく見られます。
この日もそうでした。
そして、その光景を見ていて、晩年の朝比奈隆(1908-2001)さんのコンサートのことを思い出しました。
晩年の朝比奈隆さんのコンサートは出来不出来の差がとてもはげしかった印象があります。
そして、不出来なコンサートだったと私が感じる公演であっても、いつもと変わらず、ながいながいカーテンコールが繰り返されていました。
「一般参賀」なんていうあだ名がついていましたが。
あれを見ていて、私は正直なところ、とても残酷な光景だと感じていました。
あれだけの巨匠が、「らしくない」演奏をしてしまって、明らかにホール内の雰囲気も演奏中に弛緩してしまっていたのに、終演後には割れんばかりの拍手喝采が送られる。
裸の王様の光景です。
私はこの問題だらけのマーラーを聴いたあと、今日はカーテンコールがない方がいいと思っていました。
それこそが、演奏者と聴衆の、ほんとうの意味での信頼関係ですから。
すこし慰められたのは、演奏後、ステージ上の楽団員の表情が、いつもと比べて暗かったことです。
素直な反応であり、聴衆の拍手喝采に評価を委ねず、自身で判断ができるということは、とりわけ日本では重要だと感じます。
今シーズンはまだ、このコンビには、ショスタコーヴィチやブルックナーの交響曲などの大曲、さらには《サロメ》も控えています。
末筆ながら、東京交響楽団さん、応援しています。
何とかがんばってください!