このブログで「コンサートに行こう!お薦め演奏会」のコーナーをはじめてから、すぐに聴きに行こうと思っていた演奏家のひとりが川口成彦(かわぐち・なるひこ)さんです。
ただ、自分のなかである程度の基準を作っておきたくて、まずは、フォルテピアノの王様と呼ばれているロナルド・ブラウティハムの実演を先に聴いてみて、そして、ようやく今回、川口成彦さんのリサイタルへ足を運ぶことになりました。
目次(押すとジャンプします)
当日のプログラム
2023年3月4日(土)14:00@杜のホールはしもと
シューマン:アラベスク ハ長調Op18
ご本人による曲紹介①
シューマン:子供の情景Op15
メンデルスゾーン:厳格な変奏曲 ニ短調Op54
(休憩)
アルカン:夜想曲第1番ロ長調Op22
リスト:華麗なマズルカ イ長調 S.221
ご本人による曲紹介②
ショパン:スケルツォ第2番変ロ短調Op31
〃:華麗な円舞曲(ワルツ第2番)変イ長調Op34-1
〃:バラード第3番変イ長調Op47
〃:前奏曲第15番変ニ長調Op28-15“ 雨だれ ”
【アンコール】
①バッハ(サン=サーンス編曲):無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番~“ ラルゴ ”
②アルカン:《48のモチーフ》Op63-48~“ 夢の中で ”
楽器のありのままの姿に触れている思い
川口成彦さんは、1989年生まれ、2018年にワルシャワでおこなわれた「第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール」で第2位になられたピアニストです。
このリサイタルでも、1843年製の「プレイエル」を使って、まさにロベルト・シューマン(1810-1856)やフレデリック・フランソワ・ショパン(1810-1849)が活躍していた時代の響きを重んじた音楽が奏でられました。
当時のフランスには、プレイエルとエラールという2つの大きなピアノ・メーカーがあって、ショパンが好んでいたと伝わっているのが、川口成彦さんがここに選んだ「プレイエル」のほうです。
この前、オランダのフォルテピアノ奏者ロナルド・ブラウティハムのリサイタルに行ったときも、使用楽器を2種類用意して弾き分けるというようなことをしていましたが、あのときよりも、今回の川口成彦さんのリサイタルのほうが、はるかによく、楽器の響きを実感することができました。
1曲目のシューマン:アラベスクが始まって、すぐに、その繊細な音に魅了されました。
ずっと昔に耳馴染んでいたような、懐かしい美しさに再会したような心持ちになったのはどういうわけなのでしょう。
ピアノという楽器の素顔に出会っているようで、ありのままの美しさに触れている思いがします。
そして、これもまたどういうわけか、あの美しいフォルテピアノの音を聴きながら、どうしても目を閉じずにはいられませんでした。
なので、私はこのリサイタルのあいだじゅう、ほとんど目を閉じて、ひたすらに耳を傾けて聴いていました。
音の繊細さゆえでしょうか。
こちらから音を拾いに行かないと、その美しさを取りこぼしてしまうように思えてならなかったのかもしれません。
なので、聴いていて、これはやはり「サロン」のような小さな場所、閉鎖的な空間で聴きたくなりましたし、また一方で、フォルテピアノがだんだんとグランドピアノへと変化していった、その歴史の必然性のようなものも感じました。
ホールが大きくなれば、そのぶん、楽器をそれに合わせて進化させようとするのは、楽器職人たちの音楽的良心であって、いたずらに進化したわけではありません。
ただ、そうしてピアノが変わっていくなかで、当然、失われていったものもあったわけで、近年の古楽の復興は、そうしたものを再発見していく過程だとも思います。
そして、この日、川口成彦さんのプレイエルからは、その失われたものがはっきりと聴こえてきました。
ショパンがこの楽器を愛したというのは、ほんとうに納得のいくものです。
速めのテンポによる「子どもの情景」
1曲目の「アラベスク」が終わると、川口成彦さんがマイクを手に、プログラムの説明が始まりました。
チラシやプログラムに「トーク」がある旨の記載はなかったので驚いたのですが、川口成彦さんのリサイタルでは普段からこうした語りかけが行われているのでしょうか。
私は音楽家が演奏会中におしゃべりをするのがあまり好きではないのですが、川口成彦さんのトークについては、例外的に嫌ではありませんでした。
とても誠実な語り口で、また、その音楽研究の熱心さがはっきりとわかる、勉強になる話がとても多くて、聞き入ってしまいました。
2曲目はシューマンの「子どもの情景」でしたが、それを今回は「シューマン本人が容認したメトロノーム・テンポ」で弾いてみるという趣旨の説明がありました。
ベートーヴェン同様、シューマンのメトロノーム指定も速めのテンポ設定が多いのですが、今回は、それを敢えて守ってみるということでした。
そうして演奏された「子どもの情景」で、そのテンポの速さをいちばん実感したのは、やはり、あの有名な「トロイメライ」でした。
あまりに有名なこの1曲は、突出した印象から独立性も強くて、曲集のなかで浮いてしまう演奏も少なくないなか、こうした速めのテンポで演奏されてみると、見事なくらいすっきりと「子どもの情景」という小曲集のなかにおさまるというのは発見でした。
もちろん、この方法だけが唯一解なわけではないのは、ホロヴィッツなどの巨匠たちの名演奏を聴けばすぐにわかることですが、シューマンが当初描いていた見取り図を見せられたようで、私には新鮮な発見でした。
いっぽうで、このアプローチには難点もたしかにあって、「トロイメライ」がすっきりと収まってしまったぶん、音楽の頂点がはっきりとしなくなったということは感じられました。
ただ、この曲にかぎらず、少し長めの作品になった場合に、その楽曲の頂点の場所がはっきりしなくなるというのは、川口成彦さんの演奏を聴いていて、唯一気になった点です。
緩急自在な表情があり、技巧も最上級であって、さらには音色まで非常に美しいのですが、楽曲の構築性にはすこし課題を感じました。
作曲家による見事な描き分け
音楽の頂点が見えにくいという難点をいちばん感じたのが、次に演奏されたメンデルスゾーン:厳格な変奏曲ニ短調Op54でした。
ただ、それでも、この演奏がやはり素晴らしいと感じられたのは、シューマンからメンデルスゾーンになったとき、一瞬にして「響きが変わった」ところです。
芳醇で豊かな響きで弾かれていたシューマンとは対照的に、メンデルスゾーンはその冒頭から、潔癖な響き、ぜい肉をそぎ落としたような音色に変わりました。
川口成彦さんという方は、雑誌「音楽の友」の連載を読んでも、非常に研究熱心で、学究肌であることがわかりますが、作曲家ごと、あるいは作品ごとの性格の描き分けが非常に丹念で、ここでの音楽の変化にはハッとさせられました。
こうした姿勢は、演奏家の鏡のような方です。
アルカンとリストを聴いて思ったこと
後半は、シャルル・ヴァランタン・アルカン(Charles Valentin Alkan, 1813-1888)の「夜想曲第1番」、それから、フランツ・リスト(Franz Liszt, 1811-1886)の「華麗なマズルカ」で始められました。
川口成彦さんの解説によると、リストの「華麗なマズルカ」はショパンの亡くなった翌年に書かれているので、きっと友人ショパンへのオマージュだったのだろうという作品です。
このリスト作品を聴いていたときに感じましたが、最初ショパン風にはじまった楽曲が、やがて、だんだんとリスト風に変わっていくにつれて、楽器の音色が曲想に合わなくなってくるように感じる面白さがありました。
つまり、もしかしたらプレイエルではなく、エラールで弾かれた方が曲想がいきるのかもしれないと感じられました。
川口成彦さんも「この当時は、製作者ごとに楽器の音色がおどろくほど違っている時代」とおっしゃっていましたが、まさにその言葉どおりで、それぞれの作曲家がそれぞれ自身の好みの楽器を想定していたということを、強く教えられる演奏でした。
モダン・ピアノで弾かれると、そうしたところは、ある程度中和されてしまうわけですが、こうした響きの方向性がはっきりとしているピリオド楽器で弾かれると、作品と楽器の組み合わせの大切さを感じることができます。
ショパン演奏での強い説得力
川口成彦さんは、ピリオド楽器によるショパン・コンクールでその名をとどろかせたわけですが、メインディッシュに選ばれたショパンの名曲の数々は、まさに、水を得た魚のような演奏ぶりでした。
川口成彦さんのリサイタルに行くからには、最初はやはりショパンが含まれるプログラムを聴いてみたい、と思って選んだ公演でしたが、大正解でした。
不思議なもので、その構築性に疑問を感じていたものの、ショパンとなると別のようで、「スケルツォ第2番」など見事なアプローチで、耳をとらえられました。
楽器の響きも、やはりショパンの曲ではいっそう美しく響いてきました。
どの曲の演奏も自由闊達で、とっても楽しいショパンの時間を過ごしました。
はじめて川口成彦さんのリサイタルへ行こうという方には、やはり、ショパンを含むプログラムの日をお薦めしたいです。
アンコールもひと工夫
会場の盛んな拍手にこたえて、川口成彦さんはアンコールを2曲演奏しました。
その際に、「ホールによるのですが、響きがまったく変わるかもしれません」ということで、楽器にそなえつけられている「第2反響板」というものを使用して、楽器に薄い蓋をする感じで演奏がなされました。
これが、本当に響きが変わって、ぐっと豊満な響きになったと感じられました。
一瞬、この方が美しいのではないかとまで思ったのですが、少しすると、これはモダン・ピアノの響きに近いのだと感じられてきました。
グランドピアノに近い響き。
それゆえに美しいのは美しいのですが、さきほどまで感じていた素顔の美しさは隠されてしまって、なるほど、普段、この第2反響板が使用されない理由のひとつがわかったような気もしました。
この反響板を使用しない状態のほうが、楽器の特性がそのまま出てきて、フォルテピアノ本来の美しさに直に触れることができます。
音源紹介など
川口成彦さんのリサイタル、当日は満員御礼でチケットは完売状態でしたが、それも納得の、素晴らしいリサイタルでした。
ショパンと、その友人たちの作品をあつめたリサイタル。
これほどの天才たちが時を同じくして交友を持ち、それぞれに美しい音楽を残していったというのは、言葉にならないほどの感動があります。
フォルテピアノによるショパンを生演奏で聴いたのも、今回が初めてでしたが、とても美しい音色で、現代のピアノとは全然ちがった、固有の美しさを感じることができる演奏でした。
「川口成彦さんのショパン」は、ピアノを愛するひと、ショパンを愛するひとに、是非とも聴きに行ってみてほしい、お薦めのリサイタルです。
途中でご紹介した第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールですが、そのときの川口成彦さんのライヴ録音がオンラインでも配信されています。
( Apple Music↑ ・ Amazon Music ・ Spotify などで聴けます)
1. ポロネーズ ニ短調(クルピンスキ)
2. ポロネーズ第9番 変ロ長調 Op.71-2(ショパン)
3. 練習曲第22番 ロ短調 Op.25-10(ショパン)
4. バラード第2番 ヘ長調 Op.38(ショパン)
5-6. 2つのポロネーズ Op.26(ショパン)
7-10. 4つのマズルカ Op.24(ショパン)
11-14. ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 Op.35「葬送」(ショパン)
♫このブログでは、音源をご紹介するときに、オンライン配信されているものを中心にご紹介しています。オンライン配信でのクラシック音楽の聴き方については、「クラシック音楽をオンライン(サブスク定額制)で楽しむ~音楽好きが実際に使ってみました~」という記事にまとめています。
また、あとで知ったのですが、ホール側の提案なのか、この日配られたプログラム冊子のなかの10冊だけに、川口成彦さんの直筆のサインが書かれていたそうです。
これは面白い企画。
ほかのホールや団体にもまねをしてほしい、好企画だと思います。
私は残念ながらハズレでした。
このブログでは「コンサートに行こう!お薦め演奏会」のページで、私が主観的に選んだお薦め公演をご紹介しています。
川口成彦さんのリサイタルも、お薦めのものをご紹介していく予定です。