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ジョナサン・ノット指揮
東京都交響楽団
初共演第2弾
アンヌ・ケフェレック(ピアノ)
2026年10月10日(土)14:00@すみだトリフォニーホール
ベートーヴェン:
ピアノ協奏曲第4番 ト長調 op.58
(ソリスト・アンコール)
ヘンデル=ケンプ編:
メヌエット ト短調
ブルックナー:
交響曲第6番 イ長調 WAB106(ノヴァーク版)
アンヌ・ケフェレック(ピアノ)
ジョナサン・ノット(指揮)
東京都交響楽団
ケフェレック独奏のベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番
演奏会前半は、ピアノにフランスのアンヌ・ケフェレックを迎えて、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番。
ケフェレックは今年78歳という年齢ですが、年齢をあまり感じさせないどころか、すごいものです。
第1楽章のカデンツァなど、自作のものなのか、非常に雄弁。
力強い音楽で、しかも、かなり長いカデンツァになっていて、驚かされました。
そうした一面もあったものの、演奏全体としては、もともと楚々としたピアニズムの方ということもあって、弱音での表現に比重がつよく置かれていました。
今回の演奏、それだけの要素があったのに、どういうわけか、私自身はあまり心動かされない面があったのも事実です。
数年前、同じすみだトリフォニーホールで、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番を聴いたときには、その静かなピアニズムが、ベートーヴェンのより古典的なルーツや、モーツァルト的な側面を感じさせて、非常に惹きつけられたのと比べると不思議なくらいです。
おそらく、この第4番ともなると、ちょっとわたしには、ケフェレックの聴かせてくれたものはあまりにベートーヴェン的な要素が少なすぎるというか、特に、聴かせどころになると必ず弱音に傾斜していくという点が、作品を彼女自身の芸風に引き寄せてしまっているようで、違和感を感じたように思います。
そのせいか、アンコールのヘンデルも、これも以前の公演で同じ作品を聴いたように思うのですが、以前ほど夢中に聴くことができませんでした。
ノットによる出色のベートーヴェン
むしろ、私がこの協奏曲でおもしろかったのは、ジョナサン・ノットと都響による伴奏のほうでした。
ノットという指揮者は、協奏曲の伴奏が非常にしっかりとしている指揮者です。
ただの伴奏に陥らず、つまり、音楽づくりをソリストに丸投げせず、ソリストを中心に位置づけつつも、作品の構造をしっかりと責任をもって組み立てる指揮者です。
この前の公演で聴いたブルッフ「スコットランド幻想曲」のような作品であっても、非常に立派な作品の姿を立ち上げます。
今回のベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番も素晴らしく、とくに第1楽章のあと間髪入れずに突入した、第2楽章の劇的な扱い。
これが出色の表現であって、この楽章の後半、息をすることもはばかられるようなケフェレックの静かなピアニズムへとつながっていく、大きな、大きなデクレッシェンドを形成しました。
作品も、ソリストも生かす、非凡な手腕。
この第2楽章の類まれな位置づけが、ベートーヴェンが全3楽章に与えた、ひとつのドラマとしての有機的な結びつきを描きだしていて、これまで聴いたノットのベートーヴェン演奏のなかでも屈指の、非常に深い印象をあたえられました。
ブルックナー:交響曲第6番
そして、いよいよ公演後半、メインのプログラムであるブルックナーの交響曲第6番です。
ジョナサン・ノットが指揮するブルックナーは、東響時代も色々な作品を聴きましたが、総じてアグレッシブな解釈が多く、今回もやはりそうでした。
それがいざ始まってみると、ノットの解釈よりもまず、都響の演奏がいろいろと気になりました。
まず冒頭、ヴァイオリンの刻むリズム動機がすぐ不明瞭になったときには、さすがに驚きました。
コンサートマスターの矢部さんが、もちろん意識的でしょう、少し大きな音で揃え直しましたが。
それから、わりと音楽の静かな箇所で、管楽器のお手入れの音が何度か響いてきたのにもびっくりしました。
カチャンという音や、フーと息を入れ込む音が、作品の静かな音楽のなかにはっきりと割りこんできて、ちょっとデリカシーに欠けるというか、これまでたくさんコンサートに通っていますが、こうしたものが気になったのは初めてのケースでした。
それはさておいても、何よりいちばん気になったのは、オーケストラの音がとても固いということです。
私は近年、ジョナサン・ノットやユベール・スダーンの指揮が好きなので、結果的に、ブログ内の記事の多くが「東京交響楽団」のものになっていますが、もともと一番好きな日本の楽団は、この都響=「東京都交響楽団」でした。
わたしが都響の公演によく通ったのは、ガリー・ベルティーニ(Gary Bertini, 1927-2005)やジェイムズ・デプリースト(James DePreist、1936-2013)、それから、あのジャン・フルネ(Jean Fournet, 1913-2008)が活躍していた時代の都響です。
あの頃の都響のいちばんの魅力は、その明るく、しなやかに伸び、波打つような、柔軟な音にありました。
どんなにハズレの公演であっても、ある瞬間、その波打つような音がこちらに押しよせて来て、何度も何度も魅了されました。
あの響きが、ここ数年、ぱたりと聴こえなくなっているのが不可解です。
音色がやや暗くなり、ポーカーフェイスというか、音の表情が薄くなってきていることも気になっています。
都響は、あの響きを過去のものとして、捨ててしまったのでしょうか。
今回のジョナサン・ノットとの共演でも、やはり、随所でそうした音の硬さが目立つように感じられました。
このブルックナーの交響曲第6番でいえば、特に、その第2楽章アダージョ。
作品には無数の解釈があり、この第6交響曲にだって、数えきれないほどの作品の在り様、考え方があるのはわかります。
でも、間違いなく言えることは、この作品においての第2楽章アダージョは、何よりもまず、極めて、圧倒的に美しくなければいけないということです。
このあとの第7交響曲がそうであるように、第6番においても、作品の最大のクライマックスは第2楽章に置かれていると思います。
もちろん、ノットだって、オーケストラだって、そう考えていたのではないでしょうか。
だからこそ、彼らが懸命にこの第2楽章を歌いあげようとしていたのも、聴いていてはっきりと感じられました。
ただ、結果的には、おそらく目指したであろう表現には到達せず、その力みもあって、音の固さばかりが感じられたのはとても惜しく、残念でした。
もっと静謐な瞬間、あるいは純度の高い響きを形作れたとも思うのですが、純度と力強さを両立させようとしたのか、あるいは、それらを越えた何かを目指したのか。
そもそも、それがノットの意図だったのか、あるいはオーケストラの現状の問題なのか。
いずれにしても、この第2楽章の出来映えが、演奏全体の完成度を一段下げてしまったように私には感じられました。
両端楽章のダイナミックで劇的な表現、それから、第3楽章の勢いはさすがで、ノットのアグレッシブな解釈がブルックナーの野心的で、闘争的な側面をつよく打ち出していました。
だから、この演奏は決してつまらないものではなく、むしろ、とっても聴いていて面白いところがたくさんある、立派なものでした。
それだけに、先にくどくど書いてしまったように、第2楽章さえうまくいっていれば、もっとずっと説得力の強い演奏になっていたのにと思います。
ノットと都響の初共演2公演を聴いて
驚いたのが、この演奏、どうやらライヴ録音されていて、きっといつか商品としてリリースされるのではないでしょうか。
私はノットのCDはどれもこれも集めているわけではありませんが、今回のブルックナーがリリースされたら、何だかんだ不満点を書いたものの、これはまちがいなく買います。
それくらい、総じて魅力のある演奏になっていました。
特に両端楽章で惹きこまれるところがたくさんありましたし、ライヴならではの、ノットらしい、生気あふれる、音楽の前進性が前面に出た演奏でした。
それにしても、初共演なのに、それがライヴ録音されるというのも、昨今のジョナサン・ノット人気をうかがわせます。
ひと昔前の朝比奈隆(1908-2001)さんのことを思い出しました。
この公演ではコンサートマスターが矢部達也さんだったのですが、その隣には、やはりコンサートマスターの水谷晃さんも座っていて、ツートップという態勢だったのは、やはりノットは特別待遇ということでしょうか。
勝手な予測ですが、指揮者もオーケストラも、お互いの将来、今後の関係性をうらなっていたという側面があったのではないでしょうか。
果たしてそれがどうだったのかは、それぞれに思うところがあったでしょう。
私が感じたことは、ノットの次回の都響への客演がいつか、ということよりも、東京交響楽団への復帰がいつか、ということのほうがやはり楽しみだということ。
今回の都響への客演を通じて、それくらい、あの古巣の東京交響楽団とのコンビネーションは、稀有な、幸福な結婚だったのだと再認識させられる結果になりました。
MASSE(まっせ)
クラシック音楽を長く聴き続けています。コンサートにも足を運び、良かった演奏も、期待外れだった演奏も、自分の耳で聴いて感じたことを大切に書いています。「自分なら本当に聴きたいか」を基準におすすめ公演やレビューを発信しています。クラシック音楽ブログArtoneMagアートーンマグは2021年5月スタート、2023年4月に月間86,000pv到達。感想など「お問い合わせ」ページから送ってください。


















